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毎年、正月には初詣に行く。
散歩がてら、ぶらぶらと歩きながら、いくつかの神社をまわり、
賽銭を投げ、手を合わせ、お守りを頂き、おみくじを引く。
今年、最初に引いたおみくじは、小吉だった。
【二十五番・小吉】
まずまず、かな、と思う。
4、5年前、2年続けて「凶」を引いたことを思えば。

とは言っても、基本的に、良いコトしか信じない。
不吉なことは、ふーん、と思って、忘れることにしている。
というより、わたしの脳は、「悪しきコト」はすべて
記憶から排除しようとするらしい。
いとも簡単に忘れることができる。
(悪しきコト以外も、忘れてしまったりするけど)
だから、町の占いなどで最悪なことを言われたりしても、
高価なツボや印鑑に宿るワケの分からないカミサマに、
すがることなど思いもつかない。

カミサマといえば。
中学から短大まで通っていた学校は、なんでもアリの学校だった。
週に一度は礼拝の時間があり、クリスマスには、盛大なクリスマス礼拝。
聖歌隊が学校の敷地内を練り歩くクリスマス・キャロルもあった。
それなのに、4月8日には、お釈迦様の誕生をお祝いした。
授業の一貫としてやっていた「田植え」の時には、榊を供えた記憶もある。
宇宙的視野をめざしていたのか、それとも、とてつもなく強欲なだけなのか。

そのせいかどうか知らないけど、わたしは、祭事や行事がやたらに好きだ。
無宗教で、無信仰だけど、神はいると思っている。
ヒトの心のなかに。ヒトの生活(くらし)のなかに。
移ろう季節に訪れる祭事や行事は、
人々の暮らしに置かれた「句読点」のようなもの。
知らぬ間に、さらさらと流れゆく人生に、ぽとんと小石を落とし、
束の間、その流れに目を懲らすことができるように。
流れの先に目をやって、日々の「心づもり」をたてるために。

わたしにとっての「おみくじ」は、その年の「心づもり」のためにある。
良ければ、ここぞとばかり奮い立ち、
悪ければ、より慎重に、一歩一歩を大切に。
そんなふうにしていれば、それほど酷いことにはならないだろう、と。
だが。
さすがに2年連続「凶」を引いたときは、うーむと唸った。
その2年間は、神社を見ると、ついおみくじを引いていた。
なんとか「凶」を覆すようなお札をいただいて、
すっきりとしたいものだ、と思っていたのだ。
が、引けども、引けども、良くて末吉。
それでも、まぁ、「凶」を脱したのだから良しとしよう、と
自分を納得させてみたりした。

で。今年の1月3日。
二十五番小吉のおみくじを手に、次の神社へ向かったわたしは、
そこでもおみくじを引いてみた。
「佳き年でありますように」と願いつつ、がしゃがしゃと八角を振ると、
ひょこりと頭を出した木札には、黒々とした文字で「二十五番」
あ、れ?
と思いつつ、初々しくもバイト丸出しの巫女さんに木札を示すと……。
やはり。【二十五番・小吉】
しかも、そのおみくじは、デザイン(?)も、内容も、先の物とまったく同じ。
たしかに、各神社の神主さんが、独自にデザインや文句を考え、
それぞれに印刷しているなどとは思っていない。
分かってはいるが、ちょっとシラケル。
だだっぴろい「おみくじ製造工場」が目に浮かぶ。
次々に大仰な機械から吐き出される大吉、小吉、末吉、凶。
うーん。なんだか腑に落ちない。

幸い、まだ陽は高い。
太陽も、新年を祝いかのように惜しみなく照り、1月とは思えぬほどに暖かい。
もう一軒行こうか。
飲み屋をはしごするオヤジのようにオットを誘い、再びぶらぶら歩きだす。
そして。
3つめの神社でじっくりと手を合わせ、いざ、おみくじを。
じゃかじゃかじゃかじゃか。――いつもより余計に振っております。
すっと飛び出た木札を急ぎ見る。
「九十九番」 これまた、なんとも、極端な。
色白の巫女さんが、厳かな手つきで半折りにしたおみくじを差し出す。
頭をつき合わせて、のぞきこむオットとわたし。
【大吉】
しばし顔を見合わせたのち、思わず、わっはっはと笑い出していた。
おみくじを見て、大笑いするヤツも珍しいのだろう。
巫女さんの大きなマナコがパチクリしていた。

しかし、さすが「大吉」である。
おみくじに書かれているのは、なんでもかんでも「佳きコト」ばかり。
病気、全快する。家移り、吉。願いごと・叶う。
このトシになると、願いゴトは、とにかく家内安全、無病息災。
まわりのヒトみんなが、明るく笑顔でいられますように。
ほんとに、それがイチバンだと思う。心の底から。
しかし、それでも。ヒトには、業というものがある。
このトシになったって、叶えたい「ユメ」はあるのだ。
その「ユメ」を叶えることも、わたしの大切な「願いごと」
【九十九番・大吉】
九十九番ってことは、今年の最後の最後になって
「一発逆転大どんでん返し」でもあるのかもね。
その時は、そう思っていた。


今日は4月初旬の暖かさでした、と、
気象予報士のおじさんが言った翌日は、5月中旬の気温になった。
これじゃ、ここ2,3日で、桜も一気に花開くはず。
誰もがそんな気配を感じていた金曜日の夜更けすぎ。
ライブのあと、仲間数人と澁谷をうろついていた。ちょっと呑もうよ、と。
しかし、どこにいっても満員御礼。
よく見れば、深夜の街には、「ちょっと一杯」を求めてさまよう
居酒屋難民が溢れている。
「いったい、なんなのよ、今日は?」
口々に騒いでいると、オットが言った。
「ケイチツだよ」
春を察した虫達が、地上に出てくると言う「啓蟄」
暦のうえでの啓蟄は、とっくに過ぎている。
しかし、春の陽気に誘われて、むくむくと街に溢れ出てきた人々を見ると、
ナルホドと思う。
ニンゲンも、自然のなかのイキモノなのだ。
都会にも、ちゃんと春のカミサマはいるのだな。

そういえば、と思う。
気の早い春が、桜の花のつぼみを綻ばせた頃から、
わたしの周りで、なんだか、色々なことが動きだす気配がある。
不器用ながら、ぽつぽつと蒔いてきた種が、
むずむずと土を押し上げて、ちょこっと芽を出しはじめている。
そうか。
九十九番・大吉を授けてくださったカミサマは、決して、
「一発逆転大どんでん返し」を推奨しているわけではなかったのだ。
どうやら、それは、もう始まっているらしい。
考えてみれば、アタリマエだ。
今年1年の終わりに「やっぱり今年は大吉だったね」と言えるためには、
今から始めなければ間に合わない。
そして、カミサマが下さったちいさな芽を育てるのは、
他の誰でもない、わたし自身が成すべきことだ。
地道に、大切に、真剣に。そして、果敢に。
春の気配を感じて、大地に生きようとする虫達のように、
わたしも、動きはじめなければ。すぐにでも。


「しゃーないから、新宿まで行くかー」
誰かの掛け声に、即座に同意する仲間たち。
おお。なんてノリのいい奴ら。
身も心も、軽やかなるかな、春の酔いどれ。
よっしゃー。こんな日は、とにかく楽しまなくっちゃねー。
って。 あれ? えーと、その。
九十九番・大吉のカミサマ。
明日から、必ず、精進いたしますゆえ。
なにとぞ、どうか、今宵だけはお見逃しを……。


―2002/03/20 ―


◆追記◆
この年の初めから、WEBで「日記以外の」書き物を始め、
それがきっかけで、フリーペーパーで掌編の連載が始まり、
そして、いきなり「本を出しませんか」というメールが舞い込んできたのが、
これを書いた少し前の3月14日。ホワイトディ。
いや、しかし、おいしいハナシには裏がある、
これはきっと、出版費用は著者負担とかいうやつに違いない、
と、ハナっから疑心暗鬼モードだったあたし。
が、それから根ほり葉ほりあれこれ聞いて、
ようやく正式な出版依頼だということが分かり、
んーー、それならば、とキモチが動き始めたのがちょうどこの頃。
そんな経緯だったので、
わーい、やったー、と大喜びするには既に間が抜けていて、
なんとなく、じわじわと嬉しくもあり不安でもあり、
さて、これからどうなるのか、と、
まさに、長い眠りからさめてようやく地上に顔を出した虫のような心持ちでありました。
ふふふ。

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