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ポツンとひと粒。
雨粒が僕の鼻に当たった。
やっぱり。
昼過ぎまで、弱い陽射しが花水木の白い花を照らしていたけど、
この季節にしてはなんだか蒸し暑かった。
きっと夕方には雨になるだろうという僕の予感は的中した。

大きな雨粒が、アスファルトを黒く塗りつぶしていく。
バスロータリーのあちらこちらで、
折りたたみ傘がぎくしゃくと開き始めた。
近くのビルを目指して駆け出す学生、
擦り切れた鞄を頭上にかざす背広姿の男。
人の流れが乱れて渦を巻く。
屋根つきのタクシー乗り場の列が、みるみる長くなっていく。

だけど僕は、動かない。
改札口が一番よく見える場所は、ここだから。
 
半年前、僕は彼女に捨てられた。
捨てられたなんて言葉を使うと、女々しいと思われるかもしれないが、
それ以外の言葉がみつからない。
僕にとっては、それは、本当に突然の出来事だった。
彼女と僕はウマクイッテルと、ずっと思っていた。
彼女は、いつも傍にいた。
別れが来るなんて、考えたこともなかった。

思い当たる事といえば、
彼女のパパが、僕を嫌っていたという事だけだ。
たしかにあの頃の僕は、外見も中身も子どもだったかもしれない。
無茶ばかりやっていた。
失礼な振る舞いもしたかもしれない。
でも、彼女はいつも許してくれた。
どんな事があっても僕の味方だった。
彼女が横にいてくれれば、それだけで十分にしあわせだった。

未練がましいと思われてもいい。
どうしても、もう一度だけ会いたい。
魂の抜けたようなからだにムチ打って、僕は彼女の家に辿り着いた。
だが、家の中には人の気配がなく、
彼女の部屋のギンガムチェックのカーテンも外されていた。
庭には、黒い土が大きな穴を開けていた。
テラスの屋根まであった大きな樅の木までもが、姿を消していた。

僕は途方にくれた。

何も考えられない。
どうやって生きていけばいいのかさえも分からない。
彼女の面影を求めて北風の街をさまよい、夜ごとの闇におびえ、
眠ることもできずに朝を迎えた。
そうして、ぼんやりとした冬の太陽が夜明けの空に滲んでいたあの朝、
気がついたらここに立っていた。
何度も彼女と待ち合わせたこの駅に。

雨が降っていた。
日暮れと共に落ちてきた大粒の雨。
誰もが、僕を避けて通った。
僕の姿は異様だったのだろう。
虚ろな目は赤く濁っていたかもしれない。
からだを洗うことも、身なりを整えることも、
そんなことは、もうどうでも良かった。
雨に濡れることが、気持ちいいくらいだった。
ただ、白く発光しているような改札口だけを見ていた。
吐き出される人々の中に栗色の髪の彼女だけを求めて。

何時間そうしていたのだろう。突然、雨がやんだ。  
背中から差し掛けられた空色の傘。明けたばかりの朝の空色。
傘の柄をにぎるる細い指に彼女を想い、僕の心臓は跳ねあがる。
酸素不足の金魚のように、口を開いて振り返ると、
傘と同じ色のコートを着た女性が、そっと立っていた。
彼女ではなかった。
柔らかそうな長い髪と、真っ黒な瞳。ずっと大人の女性だった。
僕はうつむいた。
「大丈夫?」
何かが、かさかさと音をたてる。
肩に掛けたバッグからハンカチを出そうとしているらしい。
僕は顔をそむけ、背中を向けた。
放っておいて欲しかった。
構うなと、怒鳴ってやりたかった。
突然の希望に震えた心は、間違いだと分かった瞬間、
朽ち果てていく木の葉のように、ぼろぼろと崩れて散っていった。

空色の女性は、僕の頑な拒否を察したのか、
手にしたハンカチをそのままに、しばらくじっと動かずにいた。
やがて、ふっと息を小さく吐くと、
ごめんなさいねと呟いて、静かに去っていった。
僕は、その場にうずくまった。
誰の心も受け入れられない自分。
ちっぽけで、卑屈な弱い男。
最低だ。
くたびれきった外見よりも、心の中の方が、
ずっと汚れているような気がしていた。

雨は小降りになっていた。
公園の水飲み場みたいな雨の匂いが薄まって、
うっすらと柔らかな優しい香りが僕の心にしみ込んでくる。
空色の女性が残していった香り。
それは彼女の家の庭に咲いていた金木犀の香りに良く似ていた。

あの日から、僕は少しずつ変わりはじめた。
自分の足で歩くという事を考えはじめた。
今までの僕は、何事も人まかせの毎日だった。
食事も身だしなみも、生活の場を居心地良く整えることも。
どんなに甘えて生きてきたかということが、良く分かった。
僕は根気よく、ひとつひとつ解決していった。
どれもが些細な事だったが、生きていく上では、どれもが大切な事だった。
自分で考えて、自分で決断し、行動する。
そうして毎日を過ごしていると、心だけではなく、外見もかわっていく。
彼女が愛してくれた甘いマスクや子どもっぽい仕草は、
いつのまにか僕の中から消えていた。

微妙に変化する空の色や風の匂いに、
ほっと心を休める時間が持てるようになってきた時、
僕は、心の中に残っているひとつの香りに気づいた。
あの、微かな金木犀の香り。
風に運ばれた桜の花びらが、道端に白い帯を描きはじめた頃だった。
金木犀が咲く季節ではないのに、
柔らかな風が吹く朝、あるいは細やかな雨が落ちる夕暮れ、
僕の周りにそっと甘やかな香りが寄り添っているような気がしていた。
あの空色の人に会いたいと、僕は思った。

雨の夕暮れ、二度ここに足を運んだ。
陽が落ちたあとの一時間、改札をみつめて立っていた。
だけど、彼女は、現れなかった。
あの人に会えるまで、ここにいたい。
僕は、そんな想いを必死で押しとどめた。
同じ過ちは繰り返さない。
ようやく自分の足で歩けるようになったのだから。
だから、僕は決めた。
夕暮れに雨が降り始めるそんな一日、もう一度だけ、あの人を待とう。
そして、その日に出会えなかったら、僕は、もう待つのを止めようと。
潔く。

そう、今日がその「もう一度だけ」。
あの日と同じ大粒の雨が、僕のからだを濡らしていく。
でも、今日の僕は、半年前の僕とは違う。
惨めでもなく、卑屈でもない。
まっすぐに白く光る改札口をみつめ、僕は立つ。
あの冬の日の空色のコートは、もう着ていないだろう。
でも、僕には見分ける自信があった。
何よりも、僕は香りを待っていた。
あのうっすらと儚く漂う、金木犀の香り。

車のライトに光る雨が、絹糸のように細くなってきている。
春の夜の雨は、昼間の埃を洗い流し、空気を清らかに軽くしていく。
勢いよく伸びる新芽や、ほころぶ蕾の香りが際だつ。
清々しい空気をすっと大きく吸い込んだ僕は、思わず息を止めた。
あの香り。
そう思った瞬間、僕の目はあの人を捉えた。

改札口の白い蛍光灯の下を通り抜け、立ち止まって天を仰いでいる。
花が咲くようにゆっくりと広がる空色の傘。
ふわりと揺れる長い黒髪。空色の軽やかなニット。
うごめく人波の中、僕は、あの人だけを見つめている。
あの人は、僕を憶えているだろうか。
あの時の僕とは随分変わってしまったかも知れない。
あの人は、僕が分かるだろうか。
こつこつと近づく靴音。
あの日と同じ傘が、彼女の白い顔を淡く照らしている。

僕に気づいて。

足元を見て歩いていたあの人が、ふと顔を上げた。
僕の心の声を聞き取ったかのように。
まっすぐに僕を見る。
黒い泉のような瞳が、ゆっくりと大きく丸くなる。
こちらに向かってくる。少しずつ歩調が早くなる。
そして、僕の前で立ち止まる。

何も言わなくても、僕の想いを彼女は分かってくれた。
柔らかな笑顔で僕をみつめ、
待っていてくれたの? と小さな声で呟いてから、
あの日と同じようにバッグから白いハンカチを出し、
僕の傍らにしゃがみ込んだ。
僕のからだをごしごしと拭く。
てのひらで、僕の頭を包むように優しく撫でる。
首を傾げて、僕の目を覗きこむ。

私のところに来る?

ゆっくりと立ちあがった彼女が、促すように僕を見る。
僕は、アスファルトを蹴って、歩きだす彼女の先に走り出る。
振り向くと、あの人が笑っている。
今度は、僕があなたを守ってあげるよ。
もう何も出来ない僕とは違うんだ。

彼女が笑いながら僕に言う。
キミの瞳、きれいな色ね。私の好きな淡い淡いスカイブルー。
そう言って、着ているニットを指さしてみせる。
そうだ、キミの名前、ブルーにしようか。
ブルー。
気に入ったよ。その名前。

僕は立ちどまり、あなたに向かって大声で叫んだ。

ウォンッッ。


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