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その店は、古い喫茶店だった。
幾度かの改装で、小綺麗なティールームといった内装にはなっているものの、
大通りを渡れば歌舞伎町という土地柄のせいか、
どこか昔の新宿の匂いがしていた。
板張りの床に、スチールの椅子。
通りに面した薄黒い硝子窓に沿って、黒曜石を模したテーブルが2つ。
壁際には、4つ。
その中央には、楕円に細長い大きなテーブルがあった。
スモークガラスを通して射しこむ光は曖昧で、
店の四隅には、密やかな翳(かげ)が澱んでいた。

中央のテーブルの端に席を取り、珈琲を頼んで文庫本を開いた。
フリルのついた白いエプロン姿のウエイトレスに、昔の女給を思ってしまったのは、
彼女の肌があまりに白く透き通っていたからだろうか。
黒々と濡れた瞳に、長い睫毛(まつげ)が影をおとし、
ぬらぬらと光る唇は、20代半ばという年頃には珍しく、血のように赤い。
ウエーブのかかった細い髪を無造作にアップにしたうなじには、
何かの印しのような丸く小さなほくろがあった。

わたしは、思わず、そのウエイトレスに見惚れていた。
彼女の細い指が、珈琲カップをテーブルに置くのを、
映画の一場面を見るかのように眺めていた。
変な店だ。
表からは、かすかに量販店の呼び込みの声が流れこんでくる。
確かに、窓ガラスの向こうには、2002年の街があるのに、
店の中の空気は、古めかしいジャズのBGMと共に、
20年も30年も、ここで渦を巻いているようだった。

ドアがあいて、浅黒い肌をしたオトコが入ってきた。
楕円に長いテーブルの向こう端に座って、ウエイトレスに声をかける。
馴染みの客らしい。
歳は50代後半といったところだろう。
コトバの端々に、かすかな訛りがある。
それを気にするでもなく、ボーリングでできたという人さし指の血豆を見せて、
ウエィトレスの気を惹こうとしている。

と、突然。オンナの声が、わたしの左耳に飛び込んできた。
抑揚の激しいコトバ、押し殺したように掠れた声。
とっさに声の方向を見ると、店の一番奥の壁際の席で
そのオンナが立ち上がったところだった。
肩先までのまっすぐな髪に、細く長い手足。
白いシャツに萌葱色の細身のパンツを穿いている。
その涼しげな目は、赤く充血していた。
血の気がなくなるほど、唇をきつく結び、
わたしの脇をすりぬけ、足早に化粧室へと向かう。
オンナは泣いていた。
あのイントネーションは、たぶん、日本人ではない。
向かいに座っていたオトコの大きな背中には、厚い脂肪がついている。
動揺した素振りもみせずに、ゆっくりと足を組み替え、
金色のライターを擦ると、ふてぶてしい仕草で煙草に火をつけた。

「昨日、センセイの映画見ました。ビデオで」
ひとつおいたテーブルに座っていた女の子が、
店の中に降りていた沈黙をなぎ払うようにして言った。
こちらに背を向けているので、顔は見えない。
色褪せた民族衣装のようなストンとした木綿のシャツに、
刺繍入りのジーンズ。頭には、革のバンドを巻いている。
その昔、新宿にたむろしていたヒッピーのような格好だが、
まだ、ハタチそこそこと言ったところだろう。
向かいに座っているセンセイは、50を過ぎているだろうか。
小柄なカラダに丸い顔。五分刈りの頭には、丸いニット帽をすっぽりと被っている。
ヒッピー崩れの女の子は、その映画がいかにオモシロカッタかを力説している。

浅黒い肌のオトコが、携帯電話を取りだした。
「あ、302号室のアサカワですけど。昨日頼んだクリーニング、もう持っていっちゃったかな」
あ、まだ? そうか。連休だからね。いや、いいんだ。あのズボン出さないでおいて。もう一回穿くから。え? だから、汚れだけ落として。そうじゃなくて、自分で汚れを落とすからさ。部屋に、ほら、あのプレッサーとかなんとかいうのがあったでしょ。え? あれ、使えないの。なんだよ。しょうがねえな。え?幾らだって? そうか。ま、いいや。とにかく置いといてよ。じゃ、そういうことで。
オトコは、寮に住んでいるのだろうか。それとも、ビジネスホテルの常客なのか。
しかし、肩章つきの黒シャツ姿は、とてもビジネスマンには見えない。

コツコツと床を鳴らして、オンナが化粧室から戻ってきた。
目はあいかわらず赤く充血していたが、頬に涙のあとは見えない。
煙草をくゆらしていたオトコの前に座り、無言のままにうつむいている。
オトコは、笑いを声に滲ませながら、小声で何か言っている。
オンナは、蝋人形のように表情を変えない。

映画の感動を語り続けている女の子の言葉を遮って、とつぜんセンセイが口を開いた。
「本、6月頃の出版になると思う。できたら送るから」
え。
全身を固くして女の子が、黙りこむ。
「あの、このイラストでオッケーってことですか」
恐る恐るといった口調で訊ねると、センセイは小刻みに肯いた。
彼女の肩からすとんと力がぬけた。ぬけたと同時に、また、語りはじめる。
今度のテーマは、どれほど、この作品に思い入れがあるか、ということらしい。
センセイは、どこか懐かしそうなまなざしで彼女を見ている。
熱く語るヒッピーに、自分の青春を見ているのだろうか。

水滴で濡れたグラスを取り、飲み干したオンナは、
大きすぎるほどのボストンバッグを両手にさげ、店を出ていく。
オトコは、後を追うというわけでもなく緩慢なしぐさで席をたち、
レジに行って金を払う。
開けたドアの先に、彼女は待っているのかどうか、ここからは見えない。

オトコの触れたドアが軋みながら閉まるのと同時に、
浅黒い肌のオトコが、下卑た笑みを浮かべながらウエイトレスに言った。
なんだい、あれ。
ウエイトレスは、肯いて、眉をしかめてみせた。
まったく、ひでえ野郎だな。なんだってんだ、莫迦にしてるよな。あれじゃ、人種差別のセクハラだ。
色白のウエイトレスは、眉のあいだに憂いを寄せて、赤い唇でささやく。
「あのオトコ、‘ヒト買い’よ」
え。そうか。ほんとかよ。莫迦にしてるよな。ひでえもんだ。

かちりと音がして、古めかしい柱時計が、ボーンと時を打ち始めた。
小一時間が過ぎていた。
冷めた珈琲を飲み干し、伝票を持ってたちあがる。

祝日の昼下がり、珈琲を片手に、ゆっくり読書でも。
そう思って入った店だったのに、結局本の頁は少しも進まなかった。
事実は小説よりも奇なり、か。
時の狭間のような店の歪んだ空気に、あてられてしまったらしい。
なんだか、カラダがふわふわと浮いている。
ぼんやりとした頭で、雑踏のなかにふみだすと、大通りに止まっていた街宣車が動き出した。
大音量の軍歌が流れだし、街を包みこんでいく。
一瞬、時代が分からなくなる。
押し寄せる人波が、モノクロのニュースフィルムの一場面のように見えてくる。
今は、いったい、何年なのだろう。
昼下がりの交差点で、わたしはひとり立ちつくしていた。

  
  
  
   

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