
雨あがりだった。
わたしは、中学の校舎を出て、ゆっくりと坂道を下っていた。
重い鞄を左手に提げ、右手には、青い傘を持っていた。
両隣には、親しい女友達がいた。
ゆるやかな坂道には、樹々の緑が色濃く繁っている。
黒く濡れたアスファルトに淡い陽が射して、
辺りには、青い植物の匂いが立ちのぼっていた。
途切れることなく続く友とのお喋りの途中で、わたしは、ふと、口を閉じた。
静かに蒸気していく水の粒が、鼓膜をふさいでいるような気がしたのだ。
口を閉じると、その感覚は、いっそう強くなった。
水中深く潜ったときのような感覚に似ていた。
からだが、水の薄い膜で覆われてしまったかのようだった。
まるで真空の中に浮いているみたいに。
自分の足が、友と同じように歩んでいることが信じられなかった。
感覚だけではなく、音までもが、
しだいにわたしのからだを離れていく。
辺りは、しんと静まっていった。
先ほどと同じように喋り続けている友が見える。
前にも後ろにも、同じように下校していく生徒達がいる。
誰もが、唇を動かしている。
肩を叩きあい、笑いあっている。
それなのに、その声も、音も、はるか彼方から聞こえてくるかのように、
からだの外側で、かすかに響いているだけだった。
わたしの内側だけが、しんとしていた。
それは、心地よい静けさだった。
薄い膜を通して見る景色は、夢の中の映像のように、どこかぼんやりとしていた。
輪郭が曖昧なそれらは、とても優しい色をしている。
ただ、雨に洗われた葉だけが、一枚一枚、くっきりと色鮮やかだった。
小さな細胞ひとつひとつが、水を含み、いきいきと漲っていた。
わたしは青い空気を吸い込みながら、遠い音の響きを感じ、
からだの内側のしんとした世界に、ひとり、漂い続けていた。
いったい、あれは、何だったのだろう。
ぼんやりとしているわたしに気づいた友人が、わたしの腕を取り、
何か話しかけてくるまで、わたしは、静けさの中にいた。
ほんの短い時間だったはずだ。
でも、その心地よさは、わたしのからだにしっかりと刻みこまれてしまっていた。
あの時、そこには、友がいて、美しい木々があり、雨上がりの新鮮な空気に満ちあふれ、
放課後という、ゆったりと解き放たれた「時」があった。
そんな愛おしい全てのものを、羽衣のように薄い静寂の布で包み込み、
うっとりと眺めている。そんな心地よさだった。
まるで、からだという器の重さを、どこかに置いてきてしまったかのような。
あの時から、わたしは、自分の内側にある
「しんとした」世界に耳を澄ますようになった。
それは、楽しく幸せな時だけではなく、
悲しくて、切ない時にも、そこにあった。
どうしてなのかは、分からないけれど。
村上春樹の「海辺のカフカ」を読んでいたら、
あの時の感覚を思い出した。
彼の小説には、「しんとした」というコトバが、何度も登場する。
しかも、その「しん」の横には、わざわざ傍点が振られている。
ただ単に、わたしが、そのコトバを敏感に拾ってしまうから、
そう思うだけなのかもしれないけれど。
だが、15歳の少年である田村カフカ君は、
確かに、あの、しんとした世界を知っている、と思う。
そして彼が愛する女性も、また、しんとした世界の中で
ひとり生きている。
からだの内側にある静寂に身を任せることは、たしかに、心地よいのだ。
だが、それは、同時に危険なことでもある。
どこまでもその中で生きようとしたら、
きっと、いつかは、戻れなくなってしまう。
あの雨上がりの坂道で、わたしの傍らにいた友のように、
腕を取り、揺り動かして、元の世界に戻そうとしてくれるヒトがいなければ。
そして、何よりも、自分でそこから戻ろうと強く思わなければ。
道の途中で、振りかえることなく。
哀しみが、からだのどこかに穴を開けて、しんとした世界を作る。
喜びをからだになじませるようにして、静けさがやってくる。
「海辺のカフカ」の世界を漂いながらも、
わたしは、そのコトバを拾い続けていた。
傍点が振られたコトバに出会うたびに、何かの暗号を解くみたいに、
その文字をじっと見つめていた。
しんとした世界の中でうずくまっている、もうひとりのわたしが、
そのコトバだけを素早く探してあて、そっと指さしてみせるのだ。
