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沈黙が似合うオトコ、というのがいる。
無口だとかお喋りだとか、そういうことに関わらず。

北野武は、その「沈黙が似合うオトコ」だ。
映画「BROTHER」を見ていて、そう思った。
沈黙している時こそ、彼の表情、瞳、唇は、何かを伝える。モノを言う。

だいたいにして、わたしは北野武の映画が好きだ。
彼の映画には、台詞が少ない。
もちろん無声映画ではないのだから、登場人物は皆ちゃんと喋っている。
それなのに、画面のどこかしらにいつも沈黙が潜んでいる。
だからなのだろう。ひとりひとりが多くのコトバを語らないような印象を受ける。
アップになった険しい顔の向こう。
顔も分からないほどに退いて撮ったシーンの、蒼褪めた空の下。
しんとした空気の中に、沈黙はある。

沈黙というのは、静寂とは違う。
沈黙が存在する空間は、真空のようにカラッポな空間ではない。
コトバにならない想いが、細かな霧のように漂っている空間。
コトバにできないコトバが、密やかに積もっていく空間。
沈黙は、コトバ以上にたくさんの「何か」を伝えてくる。
鼓膜に届かないそれは、より直接肌に触れてくるような「何か」だ。

まだ、北野武が映画を創るなんて誰もが想像もしなかった頃。
セクシーなオトコって、どんなヒトだと思う?と問われて、
わたしは「北野武」と答えたことがある。
その場にいた3人の同僚は、みんな一斉に「はぁ?」と怪訝な顔をし、
一瞬ののちに笑い転げた。
どこが? と聞かれて、わたしがコトバに詰まった。
理由など分からなかったけれど、とにかくわたしはそう思ったのだった。
「はぁ?」と言った彼女たちがあげた男性タレントには、
まったく色気を感じなかった。
アタシの感覚がおかしいのだろうか。
そう思っていた。

だが。
つい先日、気の合う仲間うちで、
また「セクシーなオトコ」の話題で盛り上がったとき。
その場にいたオンナ3名は、みんな北野武の名をあげたのだ。
(類は友を呼ぶ、とも言うけれど)

「セクシー」というものは、修得しようと思って獲得できるものではない。
そして、決して「姿カタチ」によるものでもない。
厚い脂肪にくるまれていたって、顔の造作が崩れていたって、
セクシーなオトコはセクシーなんである。
それは、そのヒトの生き方のようなもの。
生き方は、自堕落であってもいい。けなげに必死であってもいい。
どんな生き方をしていようと構わない。
ただ。
たぶん。
そのヒトの「生」の向こう側には、わずかに「死」が透けて見えている。
無意識に、そんなことを感じさせてしまうヒト。
受け取っているこちらさえも、気づかないほどにさりげなく。
肌に降り積もる霧のように、密やかに感じさせてくれる。
セクシーの正体とは、そういうものなのかもしれない。
ヒトは誰でも、無数の細胞のなかに、生と死を混在させている。
そうやって「生きている」のだ。
それが生身のニンゲンなのだから。
生身のオトコ。
これがセクシャルでなくて、なんと言おう。

沈黙をまとう北野武には、どんなに険しい表情を作っていても、
次の瞬間、ふっと笑い出しそうな気配がある。
あるいは、薄く微笑んだその後に、突如として嗚咽してしまいそうな。
どんなにたくさんのコトバを胸に抱えていたって、
それだけでは表現できないことがある。
今この時の感情が、瞬きしたとたん、まったく違うものになることさえ。
輝いていた命が、呆気なく消えてしまうのと同じように。
ヒトは、ほんのささいなことで向こう側に行ってしまうものなのだ。
だから彼は沈黙する。
生を嘲笑うかのように、あるいは慈しむように、
黙ったまま、ただ生身のオトコとしてそこにいる。

沈黙の似合うオトコは、たまらなくセクシーである。