
トラック1台分、モノを捨てた。
比喩でも誇張でもなく、ほんとうに。
引っ越し業者が「不要品処分用」にと用意した車が3トントラックだったのだ。
必要なモノ。
必要でないモノ。
特に必要ではないけれど、不必要ともいえないモノ。
この3番目の「曖昧」なモノたちを、日頃わたしは愛している。
クロゼットの奥の奥底にしまいこんで、時には、その存在さえも忘れてしまったりするモノたちなのだけれど。
何かのときに役にたつかもしれない。
そう思ってしまう。何かのとき、なんて、やってこないと知りながら。
ちょっと手を加えてみれば、きっと素晴らしく役に立つモノになる。
そう考えてみる。手を加えることなく時に埋もれてしまうに違いないのに。
かといって、それらに強く執着しているわけでもないのだ。
捨てるには忍びない。
ただ、なんとなくそう思う。曖昧に。
そうやってモノは増えていく。
だが。
転居を決め、荷造りを始めたとたん、アタシはヒトが変わったようにモノを捨てはじめる。
捨てて、捨てて、捨てまくる。
アタシの中にある触覚が判別するのは、「要るモノ」と「要らないモノ」の2種類だけ。
「曖昧」など消えてなくなる。
都会のアスファルトに降る雪のように、ものの見事の消えてしまう。
我ながら、極端だと思う。
あんなにうだうだと「曖昧」を愛していたのに、
時が満ちたと悟ったとたん、一気に冷淡に排除する。
まるでジゴロか、ドンファンみたいに。
段ボールにモノを詰め、ゴミ袋にモノを放り込みながら、ふと友人のコトバを思い出した。
ムカシ、モノを捨て始めたら止まらなくなって、捨てて捨てて捨てまくって、気づいたらダンナまで捨ててたの。
20代の頃、アタシは八方美人だった。
ヒトによく思われたくて、ということよりも、ただヒトと摩擦を起こすことを恐れていた。
ちょうど自信を喪失していた頃だった。
自信を喪失して、ジブン自身を喪失していた。
過密な日々を送っていたくせに、ジブンの中身は曖昧だった。
曖昧なまま、ただ時が過ぎていけば、それでいいと思っていた。
曖昧なジブンには、曖昧なニンゲン関係がいくつもいくつも繋がっていた。
芸術的ともいえるほどに繊細に張られる蜘蛛の巣みたいに。
アタシは、ジブンの作った蜘蛛の巣を、笑みを浮かべて眺めていた。
だが、大きくなった蜘蛛の巣は、ちょっとした風が吹くたびに、右に左に大きく揺れた。
絡まり合った糸が、ひとつふたつとはずれていく。
慌ててそれを修復した。
適当に糸をつなぎ合わせ、ジブンの巣を保とうとした。
ジブンやヒトをごまかしながら、なんとか糸を繋いでいた。
それでも糸は、こちらの思惑に関係なく、あちらこちらでほどけていく。
ぶつぶつとちぎれていく。
アタシは疲れ果て、修復の手をとめた。
風に吹かれるままに、ぼんやりとそれを眺めていた。
糸が1本消えていくたびに、なぜだか少しほっとしてもいた。
結局、残ったのはちょとやそっとの風では切れたりしない糸だけだった。
残ってほしいと願っていた糸だけが、
アタシにとって、ほんとうに必要なモノだった。
その時から、アタシは必要なモノとそうじゃないモノを意識するようになった。
そして、必要なモノだけは決してないがしろにしなくなった。
ジブンの手で、必要なモノと、そうじゃないモノを分けるとき、
ヒトはほんの少し冷酷になる。
だが、その冷酷さも必要なモノなのだ。
ダンナを捨てちゃったとうそぶく彼女は、ジブンの人生をジブンの責任で生きている。
冷酷なジブンを知っているからこそ、ほんとうの優しさを知っている。
ヒトは知らず知らずたくさんのモノを抱えている。
気がつけば、ジブンの吐き出した糸に絡まり、身動きできなくなったりもする。
だが、トシを重ねるごとに、長い道のりを歩くほどに、
必要なモノと、必要でないモノの差は大きくなる。
その違いが、はっきりと見えてくる。
トラック1台分モノを捨て、身も心も軽くなったアタシは、
ゆらりゆらりと曖昧な日常に戻っていく。
風に吹かれて曖昧にふわふわとほほえみながら。
だけど。
アタシの中身は、曖昧じゃない。
いざとなれば、いつでもすべて捨てられる。
本当に必要なヒトのためならば。
ほんとうに必要なモノ。
ほんとうに大切なヒト。
それを知ることで、生きていくことはうんとラクになる。
+2002.12.19
