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重いスチールのドアを開けると、外はまだ暗かった。
コンクリートの床をそっと踏んで屋上の端まで行く。
給水塔の台座に腰掛けて見渡すと、
あんなに厚くはびこっていた雨雲がすっかり消えていた。
藍色の空にはいくつかの星が瞬いているけれど、今さら遅い。
七夕の夜は、もうすぐ明ける。
今頃、織り姫と彦星は舌打ちしてることだろう。
いや、案外ほっとしていたりして。
逢えないあいだに、心を移してしまうことだってありえるのだから。
荒太みたいに。

去年の七夕は一緒に短冊を書いたというのに、
転勤で遠距離になったとたん、これだもの。
三十にもなって、恋人からの電話を待って夜明かしするなんて思わなかった。
しかも誕生日に。
まったくもって情けない。

手にしていた缶ビールをごくりと飲むと、非常階段のドアがぎぎっと鳴った。
こんな時間に屋上に来る人がいるなんて。
自分のことを棚にあげ、身を固くして待ちかまえていると、
現われたのはスーツ姿の吉田さんだった。
ご丁寧にシルクハットまで被っている。
変わり者で有名な、隣のアパートの住人である。

吉田さんはまっすぐにやってきて、あたしの隣に腰を下ろした。
マズイことになったと思う間もなく、ポケットからトランプを出す。
手際よく切って、一枚差しだす。
え、と驚きながらも思わず手を出すと、自分とあたしとに交互に札を配りはじめる。
すっかり配り終えると扇のように手札を広げて、あたしを見る。
慌てて思わず真似をする。
何してんだか。
吉田さんが自分の扇を突き出すので、なんとなく一枚引くと、
彼は満足そうにうなずいて今度はあたしの扇から一枚引いた。
どうやらババ抜きらしい。

ふたりきりのババ抜きは、札が多すぎてやりにくい。
ヤケのように次から次へ札を捨てていく。
自分の手札にジョーカーはないので吉田さんが持っているに違いないのだが、
どういうわけかババを引き当てることはない。
もしかしてツキが回ってきたか、荒太が帰ってくる暗示かも。
と浮かれていると、ババがまわってこないままあたしの手札が一枚になり、
吉田さんの手札はなくなっていた。

へ? 
なんかおかしくはないですか。
眉を寄せ首を傾げると、吉田さんは残念でしたと高い声で言う。
なんと、ババ抜きではなくジジ抜きであったらしい。最初に言えよ。
ムッとしていると、掲げたままのあたしの札を指さして吉田さんが宣(のたま)う。
ハートのエース。
す、すごい。大当たり。
へぇぇ、吉田さんはマジシャンだったのか。
それでシルクハットなどかぶっていたのか。

手早くトランプをポケットにしまい、吉田さんは颯爽と去っていく。
得意げに、かかと笑いながら。
カラスみたいに。

取り残されたあたしは、狐につままれたような思いで、光を含みはじめた空を仰ぐ。
呆けたように、ただ眺める。
やがて喉の渇きを覚えてわずかに残っていたビールを飲みほすと、突然、あ、と閃いた。

ジジ抜きなんだから、あらかじめ札は一枚抜かれていたのである。
抜いたのは吉田さんに他ならない。
ということは、最後の一枚が何なのか知っていて当然だ。
それなのに得意そうに笑ったりして。
カラスみたいに、今にも飛び立ちそうな勢いで。
くそぉ。
ようし見ておれ。次回は絶対、神経衰弱。神経衰弱なら自信がある。

なんだか知らないけど、あたしはこぶしを握りしめ、すっくと台座の上に立ち上がる。
「次は絶対に勝つぞ!」と雄々しく叫ぶ。
明けていく大空に向かって。

と、その刹那、銀色の光が走って消えた。
あれ? もしかして今のは流れ星。
なんだかなぁと思う。
七夕の翌朝に流れ星を見るなんて、どうしようもなく間抜けだ。
まったく、もう。どうせなら願いごとくらいすればよかった。
ほうと溜息をついたとたん、再び、あ? と首を傾げる。
今、星が流れたとき、あたしは何か言わなかったか。
次は絶対勝つとかなんとか叫んだのではなかったか。
つまりはそれが、流れ星にかけた、たったひとつの願い事。

からだから力がぬけていく。
代りに笑いがこみあげる。
くすくすと笑う。たまらずに、声をあげて笑いだす。
その声に応えるかのように、東の空が朱く染まりはじめた。
光の帯が幾重にも走る。
まるで天地創造みたいだ。
こんなに壮大な夜明けに笑っているなんて、
ついさっきまでのあたしには考えられないことだった。
これも吉田さんのおかげというべきか。

そうだ。もうお終いにしよう、荒太のことは。
擦り切れた恋など、この空の向うにあるはずの天の川に流してしまおう。

するすると昇ってくる太陽に向かって、両手をひろげる。
大きくひとつ深呼吸をすると涙がぽとりと落ちたけど、
からだの中には新鮮な空気が充ち満ちていた。
たった今生まれた赤ん坊みたいに。

おめでとう、三十歳のあたし。

給水塔にとまったカラスが、高らかにかあと鳴いた。
吉田さんみたいに。
 
 
 

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◆800字の設定(明け方に/ビルの屋上で/隣の住人が)で、
 テーマ(ひとつだけの願いごと)を書いてしまいました。
 ということで、800字にあらず。