
「辛抱」
「強情」
「時分どき」
「しくじる」
「きまりが悪い」
「白状する」
こう並べてみると、
なんということもない言葉である。
しかつめらしい、気取った言葉でもない。
たぶん、ほとんどの方が意味を知っているに違いない。
(いや、よほど若い方であれば、知らないこともあるだろうが)
だから、この言葉が日本語として「キトク状態」と言われても、
はて?と首をひねる人も多いだろう。
だが。
あなたはこれらの言葉を、
最近使ったことがあるだろうか。
または文字として書き記したという人が、
いったいどれくらいいるだろう。
わたし自身を省みても、
「辛抱」は、「がまんする」と言うだろうし、
「しくじる」は「失敗する」とか、「うまくいかない」とか、
ひどいときには「ドジった」なんていうヒトコトで
済ませてしまうことさえある。
だが。
「我慢」というひとことよりも、
「辛抱」の抱えるニュアンスのほうが、どれだけ豊かなことか。
「失敗した」というよりも、
「しくじった」の方が、そこに含まれる
「悔しさ」や「後悔」の気持ちまでもが、伝わってくる。
「強情」なんていう言葉は、
まだまだそこら辺にたくさん転がっているような気もするが、
果たしていつ使ったか(又は聞いたか)?と考えると、
思い出せない。
意地っ張り、とか、頑固、とかはすぐに浮かんでくるのに、
「あんたって、ほんとに強情っぱりなんだから」なんていう、
ちょっと拗ねたような色っぽい文句は、
もう滅多にお目にかかれない。
「昔は強情者のことを、《いっこく者》とか《一徹者》とか言った」
久世氏が何度も仕事を共にした向田邦子の書く「父親」は、
まさに「強情者」であり、
「昔の父親は、多かれ少なかれ、みんないっこくで、
一徹だったようである」
そんな父親の在り方が薄れていくにつれ、
言葉のほうの「強情」の存在も、
同じように薄れているのだ、と。
「向田さんはその類の古い言葉を、
日常の中で使うのが上手な人だった。
粋で、洒落ていて、あの人にかかると、むしろ格好よかった」
「反対」とか「逆」と言わずに、「あべこべ」と言う。
それも、そういう古い言葉ばかりを並べるのではなく、
「マルグリット・デュラス」とかいう単語に、
「実に絶妙にまぶして使う」という。
「そうすると途端に、《じれったい》や《癇癪》が、
生き生きとしてくる。《依怙地》や《宗旨替え》が、
ピカピカ光って見える」
その向田邦子の「粋」は会話だけでなく、
当然文章の中にも現われる。
「邪慳にしたんで、気がとがめてンだな」(あ・うん)
「気廻さないでよ。電話がないから、
連絡先はここにしてって言ってるだけじゃない」
(阿修羅のごとく)
阿修羅のごとくのこの台詞は、
吹雪ジュンが言ったのではなかったか。
彼女は、その当時の「今どき」の女の子で、
四姉妹の中では、派手で現代的な風貌である。
棲んでいるアパートには、勝てないボクサーである男がいて、
そのことを家族には内緒にしている。
ちょっと崩れかけたその容姿で、「気廻さないでよ」と
怒ったように言うその台詞に、
抱えている秘密の「後ろめたさ」がよく現われていた。
ちょっとした1シーンだったのに、
ここまではっきりと憶えていることに、
自分でも驚いてしまったが、
それこそが向田邦子の脚本の、
そして「言葉」の「力」なのかもしれない。
このところ、「死語になりつつある言葉」に感心が高いようで、
「懐かしい日本語の言葉」という本も、話題になっている。
その本を知ったのは、
この「ニホンゴキトク」を読んだあとだったので、
気になって思わず「懐かしい……」も買ってしまった。
列記されている言葉たちは、確かに「懐かしい」言葉たちだが、
なぜだか少し味気ない。
語句とその説明というように、
辞書形式で記されているせいだろうか。
それに加えて、その説明の文章が、あまり美しくないのである。
もちろん「今」の人たちに分かりやすく、読みやすく、
気楽に読んでもらおう、という狙いなのかもしれないが、
せっかく「味」のある言葉を連ねてあるのだから、
説明のほうにも、もう少し情緒が欲しいと思ってしまう。
たとえば、「きまりが悪い」
『懐かしい日本語の言葉』では、
「恥ずかしくて居心地が悪く感じるときがきまりが悪いだ。
きまりとは秩序。自分がその場の秩序に収っていない
ように感じることから来た」
と書かれている。
なるほど、と思う。秩序かぁ、と。
だがこれが、「ニホンゴキトク」では
どう書かれているのかというと。
まず若かかりし頃の自分の「きまりが悪かった」思い出を、
丁寧な美しい文章で書かれている。
(このエピソードが、思わず笑ってしまうような、
それでいてほろ苦く切ない話しなのだが、
ここで種明かしするのはもったいないので、やめておきます)
そのあと、向田邦子の『お辞儀』の一節が記されている。
《見舞いの来ない患者もいるのに、
こうやってぞろぞろ来られたんじゃ
お母さんきまりが悪いから当分はこないでおくれ》
姉妹4人が、入院しているお母さんを見舞ったときの、
お母さんの言葉である。
久世氏は言う。
「これを《恥ずかしいから》と言ったのでは、
せっかく来てくれた子供たちを傷つける。
もうお年だから、《格好悪い》などとは言わない。
ここはどうしても《きまりが悪いから》でなくてはいけない。
嬉しいような、困ったような、
お母さんの気持ちが可愛いのである。」
そしてこのあと、渡辺淳一が週刊誌の連載に書いた
父親と息子の「きまりが悪い」話しがあげられているのだが、
(これが又素敵な話しである)
それらと繋げて、久世氏は更に言う。
「要は、それを見た人が、
《恥ずかしそうに》という言葉で感じるか、
《決まり悪そうに》と感じるかなのだ。」
そして、こう結ぶ。
「感じるときに、まず言葉は選ばれる。
次に、それを人に伝えるときに、もう一度選ばれる。
えてして私たちは、言葉というものを伝達のためだけのものと
考えがちだが、実は多くの場合、言葉で感じているものなのだ。」
だとしたら、言葉はたくさんあった方がいい、
その方が豊かで、幸せに決まっている、と。
言葉は、その意味を知らなければ始まらない。
だから、「懐かしい日本の言葉」のような本で、
知識を得ることは必要だろう。
だが、その言葉を実際に「使う」とき、
辞書を見ながら喋るわけにはいかない。
外国語の習得ならいざ知らず、
母国語でそれをしなければならないのでは哀しすぎる。
言葉というのは、自分のからだの中から出てくるものだ。
知識だけの言葉は、なかなかからだの中に入らない。
血肉化されない。
「ニホンゴキトク」で取り上げられている言葉には、
それぞれに感情がある。
作者である久世氏の想い。
引用された小説の主人公の想い。
それを書いた作家の想い。
それらが、重すぎず、軽すぎず、
吟味された言葉のリズムのある文章で、繋がっていく。
読み手は、ひとつの言葉に、自分の感情を重ねていく。
心が揺れる。
だからこそ、ひとつひとつの言葉が、からだに沁みこむ。
自分の言葉として、あらたに根付く。
ここに書かれた言葉を忘れずにいよう、
そう思うのと同時に、
伝えたいことを文章にする、というのは、
こういうことなのか、と改めて思う。
知識だけ、要点だけを連ねるのではなく、
自分自身と照らし合わせ、自分自身に引きよせて、
からだの中にある言葉をすくいとる。
それができてこそ、想いは読み手に伝わるのだ。
ここまで書いてきて、
引用文が多いことに気づき、驚いた。
この本には、それだけ伝えたい言葉が多いということだろう。
だが、最後にもうひとつだけ、引用させて頂きたい文章がある。
このことを忘れてはならないという、
自戒をこめて。
「たった一つの言葉が息を吹き返しただけで、
世の中が明るくなったり元気になることもあるかもしれないのだ。
彼らを生き返らせるものは、何なのだろう。
――それは、《言葉》への愛ではないかと私は思う」
*「」内は、引用文です。
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「ニホンゴキトク」 久世光彦著
価格495円 講談社文庫
「懐かしい日本の言葉」 藤岡 和賀夫著
価格600円(文庫) 出版:宣伝会議
