
まどろみから覚めたばかりのわたしを、
痩せたうさぎの顔が見おろしていた。
天井の板目に並ぶ二つの節(ふし)が小さな丸い目、
横に流れる年輪は長く伸びた二本の耳。
昼下がりの白い光の中、畳に敷いた布団から見あげる天井は、
うんと高く見える。
わたしが四歳になる年、
父と別れた母は、住宅街の外れに建つ小さな家を借りた。
都心に近いというのに、あたりにはまだ野原や畑が広がっていた。
それまでの祖母を交えた四人暮らしの家に比べれば、
ふたりだけの生活は、平穏で静かな毎日だった。
母の口調やしぐさのような、ゆったりとしたリズムが家の中に流れていた。
そんな静かな家の中で、
わたしは、毎週のように熱を出しては寝こんでいた。
いつもは青白いわたしの顔が、
桃のようにうっすらと赤くほてってくると、
母は押入から布団を出してわたしの寝床を設(しつら)える。
小さな平屋の六畳二間(ふたま)は、
それぞれ表と裏の小さな庭に面していた。
表側の部屋には、庭におりる窓に沿って板張りの廊下が、
裏庭には縁側が伸びていた。
季節によって、どちらかに日だまりができ、
部屋の明るさも暖かさも、風の通り道もわずかながら違ってくる。
その加減をはかりながら、母は部屋を選んで布団を敷く。
どちらが寝室でも茶の間でも、
ふたりだけの暮らしの中で不都合なことは何もなかった。
顎まですっぽり掛け布団で被われたわたしの胸元を、
ぽんぽんと軽く叩いてから、母が医者に電話をかける。
「往診をお願いします」
耳慣れた言葉を布団の中で聞きながら、
わたしは、歩いて五分ほどの庭木の茂る医院を思い浮かべる。
ちらちらと木漏れ日が揺れる待合室。
静かにゆっくりと話す太った初老の医者。
診察室の棚に並ぶ蒼い硝子瓶。
奥の住まいから診察室に流れてくる奥さんの軽やかな声。
丸顔の奥さんの白衣のポケットには、
いつもドロップの缶が入っている。
熱のある日の昼ごはんは、卵をといた菜の花色のお粥だった。
一匙すくっては、ふうふうと冷ましながら、
横になっているわたしの口に粥を運ぶ。
その合間に母も一匙口に入れる。
また、匙がわたしに向けられる。
そのリズムにのせられて、いつのまにか小さな土鍋は空になる。
笑いながら、ご馳走様でしたと言ったあと、母は台所に立っていく。
台所から食器を洗う音が聞こえてくる。
きゅっと水道がとまったと思うと、ガラガラと引き戸が開いて、
今度は勢い良く水の跳ねる音がする。
プラスチックの風呂桶や椅子が触れあってカン、コンと優しく響く。
家の中の音を聞きながら、わたしは又うつらうつらと眠ってしまう。
カチンとガス台に火をつける音。
まだ半分夢の中にとけこんでいる頭に、
やかんが湯気をたてる音が忍びこんでくる。
近所の子ども達は、まだ学校に行っている時間のせいか、
ときおり自転車のタイヤの軋む音が通り過ぎるだけで、
外は奇妙なほどに静かだ。
柔らかな空気が耳をふさいでいるような気がして、
人差し指を耳の穴に突っこんで揺すってみる。
氷枕がちゃぽんと音をたてる。
部屋をのぞいた母が慌てて走りより、
「熱のあるときに、耳を触ると中耳炎になるのよ」と
わたしの手を布団の中にしまいこんだ。
水を使っていた母の手はひんやりとしていて、
熱を持ったからだに心地好い。
薄い合板の木のドアがコンコンとノックされて、
医者が小さな玄関をいっぱいにして、
太ったからだを揺らしながら入ってきた。
座布団に座って鞄を脇に置くと、
「どうしましたか」とにっこり笑う。
大きなからだの割りに、声は密やかで優しい。
わたしは、ひび割れた黒革の鞄を開いてみたくて、
大きながま口のような鞄ばかりを見ている。
母がわたしの布団をめくり、
パジャマのぼたんをはずして胸を開く。
鞄の中から聴診器を取りだして医者の診察が始まる。
金属の冷たさを胸に感じながら、
わたしはぼんやりと母と医者の会話を聞いていた。
――熱は何度ありましたか。
――食欲がないようで。
――よく眠りますか。
診察が終わる頃、母は台所から洗面器をのせた木の丸盆を運んでくる。
洗面器には、水で温めたやかんの湯が張ってあり、
傍らに洗いたての白いタオルが添えられていた。
その湯でゆっくりと手を洗いながら、医者がこちらを向く。
「おみかんをたくさん食べると良いよ」
扁桃腺を腫らして熱を出すことの多かったわたしに、
「喉にしみる物は食べないように」というのが決まり文句のはずだった。
わたしは、きょとんとしたまま医者の丸い顔をみつめてしまう。
医者は笑って頷いてみせてから、
よいしょっと重そうなからだに自分で声をかけ、立ちあがる。
おみかんを食べても良いって。
医者が玄関のドアを閉めたとたん、わたしは勢いこんで母に言った。
腫れた喉に蜜柑はしみる。今日も蜜柑は食べられないと思っていたのに。
母にとめられるまで幾つでも食べ続けるほど蜜柑が好きだったわたしは、
よほど嬉しかったのだろう。
「あの、お医者さん、優しくなったね。なんだか診察も上手だったみたい」
見当はずれなお世辞まで言ってみせた。
母は、ぷっと吹き出して、「お通じがないって言ったからよ」
そう言いながらも、まだ肩を揺すって笑い続けている。
手にした洗面器の中で、お湯がちゃぷちゃぷと音をたてる。
母の笑い声と、その水音がおかしくて嬉しくて、
わたしも一緒になってくすくすと笑った。
静かで穏やかな時が流れる小さな家の中で、
おなじような光景が、幾度となく繰り返された。
それでも、わたしが成長するにつれ、
医者が往診に来る回数はしだいに減っていく。
新しい人生を、母はゆっくりとした歩調であるきはじめ、
わたしは、少しずつ心とからだに馴染ませていった。
色を重ねた木目にまぎれて、天井のうさぎが消えかけた頃、
郊外に引っ越すよと、母が言った。
新しい仕事に就くのだと、照れくさそうにつけくわえた。
わたしは十歳になっていた。
