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並べられているのは、決して難解なコトバではない。
だが、今風の安易で軽い標識のような詩とは、一線を画している。
選び抜いたコトバを、研ぎ澄まされた感覚で丁寧にひとつひとつ並べていくと、
フツウのコトバは、フツウでなくなる。
頁をめくりながら、わたしは、そのことに衝撃を受けていた。

           「朝礼」
       雨に濡れると
       アイロンの匂いがして
       湯気がこもるジャンパースカートの
       箱襞に捩れた
       糸くずも生真面目に整列する

いきなり、アイロンの蒸れた匂いがあたりに漂う。
箱襞の制服を着た女生徒たち。
「少女」のなかにひっそりと隠れている「女」が匂うのだ。
女生徒達は、校庭に「貧血の唇を閉じたまま」しんと整列している。

       体操が始まって
       委員の号令に合わせ
       生殖器をつぼめて爪先立つたび
       くるぶしにソックスが皺寄ってくる

少女だったことのある女なら、誰でもが、
この生々しい感覚に覚えがあるのではないだろうか。
そして、この詩は、こう結ばれる。

       感情がささ波立っている
       訳は聞かない
       遠くからやってきたのだ

いったい何が「遠くからやってきた」のか。
また、「素顔」という詩の書き出しの一節では。

       服のように
       簡単に顔をぬげなくて
       苦しい

たしかに、服のようにするりと脱いでしまいたいと思うことがある。
肌の上の化粧が、やけに重たいとき。
感情を隠して作った頬の筋肉が、痙攣しそうなとき。
どんな表情をつくるべきなのか決めかねて、
目も鼻も唇もばらばらに砕けてしまいそうなとき。
その表情に苦しんでいるうちに、
「呼吸をするように/ふっと」素顔になってしまう自分。
そして、この詩の最後は、こうだ。

       目を閉じる
       しきりに何か降ってくる
       真昼

井坂洋子は、選びぬいたコトバで、
読む者のからだの中にある「感覚」を呼び覚ます。
それは、かなり生々しい。
湿り気を伴っていたり、光と影を従えていたり、
空気の匂いまでが絡みついた「感覚」である。
その感覚に戸惑い、うろたえているうちに、詩は、静かに終着点に向かう。
「遠くからやってきた」何か。
「しきりに降ってくる」何か。
それは、耳元に、あるいは、真空のように静謐な空間のなかに、
そっと流れる呪文のようにも思える。
並べられたコトバのひとつひとつは、すべてフツウのコトバなのに、
読み終えたあと、ふと気づくと、フツウではない空間に連れ去られているのだ。
それは、コトバの選び方、繋ぎ方から生まれてくる。
ほんの少しの歪み。捻れ。飛躍。
それらのコトバたちが、まさに白日夢を見させてくれるのだ。

そして、もうひとつ。
井坂洋子の詩には「女」の生々しい感覚があるが、
それは、可愛い女、哀しい女、艶めいた女、毅然とした女、などという
形態を主張する女ではない。
「生」と「性」を内包している「女」という「ヒト」なのだ。
井坂洋子が選ぶコトバは、決して「女」であることに頼って流されてはいない。
わたしは、彼女の「コトバ」に対する感覚、姿勢に敬服する。


詩に、むずかしい解釈などいらない。
解釈に、正解、不正解もない。
詩は、感じることだと、わたしは思う。
現代詩というものを食わず嫌いしていた私の頭を、
ガンと一発思いっきり殴って、目覚めさせてくれた一冊である。   


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『現代詩文庫92 井坂洋子詩集』
井坂洋子/思潮社/1988年/1165円