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ここのところ、「寅さん」にはまっている。
そう、「渥美清」演じるところの、あの「車寅二郎」
山田洋次監督の「男はつらいよ」という、あの映画。

もともと、オットは年季の入った「寅さんファン」だった。
なんていうと、髭が濃くて、ごっつい顔して、ジャンパー(死語!)なんぞを
年がら年中着てるような男臭い奴を思い浮かべるかもしれないけど、
オットは、まるで正反対のタイプである。
だから、彼が「寅さんが好き」というと、みんな「なぜ?」と首を傾げる。
いったい、どこに共通点があるのか、と。

仕事のために数年間海外で暮らしてたオットは、
まいとし年末に一時帰国するたびに、「男はつらいよ」を見に行ったのだという。
寅さんを見ると、「帰ってきたんだなぁ」としみじみ想い、
ニホンって良いなぁと嬉しくなり、
ああ、年末だなぁ。正月がくるなぁ。と実感できたのだと言う。

最初は、わたしも「寅さんが好き」という彼を、
変わった奴だとしか思っていなかった。
まだ野原や畑があちこちにあった東京に生まれ、
そのままずっと東京に育ったドメスティックなわたしは、
日本映画というものにあまり興味がなかった。
憧れは、アメリカの陽気さ、明るさ。自由で合理的な生活。
そういうものばかりを追いかけてきた。
学生時代には、潮風で変色した髪にバンダナを巻き、
サーフボードを車に積んでは、淀んだ海の黒い砂浜へと出かけていた。
ソニープラザに行っては、アメリカの雑貨やステーショナリーに憧れ、
カラフルなジェリービーンズや、舌が赤く染まるキャンディを買った。
20代半ばまでは、そんなふうに過ぎていった。

オットと出会い、彼の力説にうながされ、
映画館で寅さんを見たのは、20代後半のことだった。
それまでにもテレビでちらりちらりと見たことはあったけれど、
それほど真剣に観たことはなかった。
で、初体験の感想は。
面白かった。
なんだかとても可笑しいのだけど、それは、ドタバタ喜劇のおかしさとは
全く異なったもので、どこか哀しかった。
シリーズモノのコメディ娯楽映画というような認識は、
その初体験で、みごとにコッパミジンになっていた。
映画館の客席に広がるくすくす笑いは、どことなく連帯感があって不思議だった。

渥美清が亡くなって、6年。
文庫本になった「知られざる 渥美清」(大下英治著 廣済堂出版)
というを本を、オットが持ち帰ってきた。面白いから、読んでみて、と。
唸った。すごかった。
インタビューで語っている寅さんの、いや、渥美清のコトバに胸が痛くなった。
これほど役者として人生をまっとうしたヒトもいないだろう。
その徹底した生き方には、凄みさえ感じる。
銀幕に映る寅さんは、限りなく優しいオトコだというのに。
山田洋次と渥美清は、精魂こめて、あの映画を作ってきたのだ。
「シリーズモノ」に生まれがちな「惰性」など、どこにもナイ。
流されることなく、緻密に繊細に、妥協することなく。
「男はつらいよ」という映画は、苦しいほどに真面目に撮られた映画だった。
文学にたとえるなら、真っ直ぐ、正当な純文学である。

ちゃんと寅さんを観てみたい。
本を読み終えたとき、そう思っていた。
それから、毎週レンタルビデオ屋に行っては、2巻ずつ借りている。
自分のトシのせいもあるのかもしれないけれど、
寅さんを観ていると、心が落ち着く。ほっとする。
アタマとココロが柔らかくなっていく。
カラダがほどけていく。

形ばかりの体裁などにこだわることなく、フツウの暮らしをする人々。
寝て起きて、食べて、仕事をして、笑って、怒って、泣いて。
苦しい者には手を貸して、たまの祝い事には多いに羽目をはずし。
正月には、着物を着て(それも、決して、華美なものではなく)
茶の間にあつまって、おめでとうと言い合って。
夏には、打ち水、風鈴、西瓜、朝顔、浴衣。
汗して働くヒトの首には、洗い晒しのタオルがまかれ、
裏街道を歩くオンナの薄暗いアパートには、小さな三面鏡がぽつんとある。

そう。映画のなかに描かれているのは、紛れもないニホン。
映画館で感じた、不思議な連帯感は、
みんな同じ「日本」という国に暮らしているという、
潜在的な「連帯感」だったのかもしれない。
山田洋次は、日本人の「原風景」というものを知っている。
渥美清は、日本人の心の機微を熟知している。
年齢、性別に関係なく、誰でもが懐かしいと思ってしまう「何か」が、
「男はつらいよ」には、満ちあふれている。
それは、決して押しつけがましくなく、いつのまにか心に溶けこんでいる
「何か」なのだ。

幼い頃の記憶を探って、文章にしようとすると、
なぜか、「出来事」よりも「風景」ばかりが浮かんでくる。
古くて小さな家の佇まい。
縁側の蒸れた木の匂い。
玄関の三和土のしっとりとした冷たさ。
庭の隅には、オオバコやハコベといった雑草が芽をだし、
ひんやりとした畳に寝そべってうつらうつらと目を閉じると、
夢の向こうからくぐもった風鈴の音がする。

小さな記憶の欠片から、次々に引き出される、ささいな日常の風景。
そこには、たしかに、日本人の原風景がある。
「今」という現代に生きていても、忘れたくはない風景。
いや、忘れようとしたって、忘れられるものではないのかもしれない。
それは記憶の中にあるというより、
カラダの中の細胞に組み込まれているとでもいうようなものだから。

原風景に潜むナニカが、おいでおいでと、手招きをしている。
そんなことを想いながら、
わたしは、ちいさな風景をコトバに変換しつづける。
夢とウツツのはざまを漂うようにして、ぽつぽつとキーを打ちつづける。

日本人なら、誰でもが、無条件に「懐かしい」と思える「何か」
その「何か」に惹かれて、
その「何か」が知りたくて、
わたしは今日も「男はつらいよ」を観てしまう。
寅さんと共に、泣き笑いしながら。