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毎日のように行く喫茶店には、バイトの女の子が5,6人いる。
かなり臨機応変なローテーションらしく、
その日のシフトは、行ってみるまで分らない。
しかも彼女たち、ひとりひとり見事にタイプが違うのだ。
オーダーを取って、珈琲を持ってきて、伝票を置く。
一応マニュアルがあるらしく、客に向かって言うコトバも決まっているし、
テーブルを離れるときに深々と一礼するやり方も、みんな律儀に守っている。
なのに、受ける印象はひとりひとりまったく違う。

それならば、愛想がよくてきびきび働く子が一番の好印象かというと、
決してそうではないのだ。
たぶん、これは相性の問題でもあると思うのだけれど。
あるいは、しごく個人的な「好き嫌い」という好みの問題。
あたしは、自分の意見ややり方を「押しつけて」くるヒトが何より苦手なものだから、
あれこれと先回りしてぐいぐい迫ってくるヒトに対しては、
どうしても苦手意識を持ってしまう。
いや、もしかしたら、怖れをなしているのかもしれない。
それ以上、こっちに踏み込んでこないで、と。
だから、そんなふうにきびきびと立ち回る彼女が来ると、
とっさに身構えて、なんだか憮然としてしまう。

でも、別の角度から見てみれば、
彼女はよく働くしっかり者ということになるはずだ。
客の中にだって、その対応を気に入っているヒトもいるだろう。
相手に悪気がないだけに、いや全て善意でしてくれることだからこそ、
その対応に心からの笑顔を返せないことが、
なんだか申し訳ないようにも思えてくる。
が、そうとは分っていても、だめなものはだめなのだ。
こうなってくると、もう理屈ではなくて、
ほとんど生理的なもののような気さえする。

動物は、出逢った相手が敵か味方か、
危険なのか無害なのかということを、瞬時に判断してしまう。
でも、それは、命を守るための「本能」によるもの。
あるいは、よりよい子孫を残すため、
「種」(シュ)の存続のための、必要不可欠な選別なのだ。
「好き嫌い」で判断しているわけじゃないから、
分かりやすいし、潔い。
そこに「感情」が絡んでくるからこそ、人の世は複雑になる。

「感情の動物」であるヒトにとって何よりもの敵は、
自分の感情を乱す者。
そんな認識のもとに「生理的」という言葉を使うヒトという動物は、哀しい。
生理的な「好き嫌い」というものが、
ヒトに残された「本能」だとしたら、なんて皮肉なことかと思う。
その本能によって、敵味方を選り分けているのだとしたら。

同じ「ヒト」という動物同士、敵も味方もないじゃないか。
誰もがみんなそう思えたら、どんなにいいことだろう。
そう嘆いてみても、
やっぱり生理的な「好き嫌い」をひっくり返すことは難しい。

いつもの喫茶店で、いつもの珈琲を飲むたびに、
ニンゲンって勝手なイキモノだよなぁ、と、思う。
ほんとうに面倒なイキモノだ、と、つくづく思ってしまうのだ。

―2006.1.14 blog「トルニタリナイコト」―