<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<rss version="2.0">
<channel>
<title>未明図書館</title>
<link>http://www.mimei.info/works/</link>
<description> ― 田川未明ウェブ発表作品集 ―</description>
<language>ja</language>
<copyright>Copyright 2008</copyright>
<lastBuildDate>Sat, 07 Apr 2007 17:03:36 +0900</lastBuildDate>
<generator>http://www.movabletype.org/?v=3.171-ja</generator>
<docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs> 

<item>
<title>ダークチェリーパイ</title>
<description><![CDATA[<p><img alt="darkcherrypie.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/darkcherrypie.jpg" width="209" height="56" /></p>

<p><br />
食べ物に関しては、耳年増だった。<br />
こんなことで耳年増なんて言うのは、おかしいかもしれないけれど、<br />
でも、実際そうだったのだ。<br />
10代のあたしは、何より「料理の本」が好きだった。<br />
しかも、うっとりと眺めるものは、食卓に並ぶような料理ではなく、<br />
見たことも食べたこともないようなものばかり。</p>

<p>だから、14の小娘にして、フォアグラもトリュフも知っていた。<br />
ビーツだって、アーティチョークだって知っていた。<br />
名前だけは。</p>

<p>とりわけ好きだったのは「洋菓子」の本。<br />
中でも、色とりどりの果物が並んだ「パイ」は、いつ見ても心躍るものだった。<br />
薄く幾重にも重なった、いかにも香ばしそうなパイ生地と、てらてらと輝く果実。<br />
その頃はまだ、パイと言えば「アップルパイ」くらいしか知らなくて、<br />
「洋梨」とか「ブルーベリー」のパイなんていうものが、<br />
町のケーキ屋に並ぶことはなかったのだ。<br />
もちろん、チェリーパイも。</p>

<p>あたしは、そのチェリーパイの写真を、しげしげと見ては首をひねった。<br />
チェリーというからには「さくらんぼ」なのだろうけど、<br />
どうみてもこれは「さくらんぼ」のようではない。<br />
日本のさくらんぼは、もっと小さくて、もっときゅっと身が締まっていて、<br />
「身持ちの堅い娘」のように、どこか初々しいものなのに、<br />
このチェリーパイにのチェリーは何だ。<br />
豊満で、たぷたぷと甘そうで、今にもぐずぐずと服を脱ぎ出しそうな妖艶さ。<br />
材料の記述を見れば「ダークチェリー」と書いてある。<br />
ダークチェリー。</p>

<p>高校に入って、実際に自分でお菓子を焼くようになってからは、<br />
何度か缶詰に入ったシロップ漬けの「ダークチェリー」を買ってきて、<br />
粉まみれになりながら、パイを焼いた。<br />
その輸入物の缶詰は、お小遣いで買うには高すぎるものだったけれど、<br />
どうしても、あの本にのっていたようなパイを焼いてみたかったのだ。<br />
でも、いつもどこか違うような気がした。<br />
缶詰のチェリーは、丸々としてはいても、どこかだらしなく、<br />
瑞々しさに欠けていた。<br />
あの写真のダークチェリーは、たぷたぷと肉厚でありながらも、<br />
歯を立てればぷちんと果汁が飛び散りそうな、<br />
そんな生々しい果実だった。</p>

<p>だから、オトナになって、<br />
初めて生の「アメリカン・チェリー」を見たときには、<br />
思わず、呆然としてしまった。<br />
なんだか幻を見ているような気分だったのだ。<br />
憧れの君に、やっと会えたとでもいうように。</p>

<p>それなのに。<br />
その頃のあたしには、パイを焼く余裕などなかった。<br />
日々をやり過ごすだけで精一杯で、<br />
粉を練る「時間」も、オーブンが熱くなるのを待つキモチの「余裕」も、<br />
持ち合わせてはいなかった。</p>

<p>それでも、とにかく、チェリーを煮た。<br />
濃い赤紫のチェリーとグラニュー糖を鍋に入れ、<br />
深夜の台所で、ことこと煮た。</p>

<p>確かにチェリーは美味しかった。<br />
煮方がまずくて、皮が弾けてしまったりもしたけれど、<br />
でも缶詰とはまったく違う味がした。<br />
新鮮な厚い果肉が、たっぷりと甘かった。</p>

<p>でもやっぱり。<br />
パイのないダークチェリーパイは淋しかった。<br />
いつの間にか、余裕のない大人になっていたことが、<br />
なによりも哀しかった。</p>

<p></p>

<p><br />
＋＋＋<br />
2006.9.23　「トルニタリナイコト」<br />
　<br />
　<br />
　</p>]]></description>
<link>http://www.mimei.info/works/archives/2007/04/post_138.html</link>
<guid>http://www.mimei.info/works/archives/2007/04/post_138.html</guid>
<category>エッセイ</category>
<pubDate>Sat, 07 Apr 2007 17:03:36 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>面倒なイキモノ</title>
<description><![CDATA[<p><br />
<img alt="mendou.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/mendou.jpg" width="209" height="56" /></p>

<p><br />
毎日のように行く喫茶店には、バイトの女の子が5，6人いる。<br />
かなり臨機応変なローテーションらしく、<br />
その日のシフトは、行ってみるまで分らない。<br />
しかも彼女たち、ひとりひとり見事にタイプが違うのだ。<br />
オーダーを取って、珈琲を持ってきて、伝票を置く。<br />
一応マニュアルがあるらしく、客に向かって言うコトバも決まっているし、<br />
テーブルを離れるときに深々と一礼するやり方も、みんな律儀に守っている。<br />
なのに、受ける印象はひとりひとりまったく違う。</p>

<p>それならば、愛想がよくてきびきび働く子が一番の好印象かというと、<br />
決してそうではないのだ。<br />
たぶん、これは相性の問題でもあると思うのだけれど。<br />
あるいは、しごく個人的な「好き嫌い」という好みの問題。<br />
あたしは、自分の意見ややり方を「押しつけて」くるヒトが何より苦手なものだから、<br />
あれこれと先回りしてぐいぐい迫ってくるヒトに対しては、<br />
どうしても苦手意識を持ってしまう。<br />
いや、もしかしたら、怖れをなしているのかもしれない。<br />
それ以上、こっちに踏み込んでこないで、と。<br />
だから、そんなふうにきびきびと立ち回る彼女が来ると、<br />
とっさに身構えて、なんだか憮然としてしまう。</p>

<p>でも、別の角度から見てみれば、<br />
彼女はよく働くしっかり者ということになるはずだ。<br />
客の中にだって、その対応を気に入っているヒトもいるだろう。<br />
相手に悪気がないだけに、いや全て善意でしてくれることだからこそ、<br />
その対応に心からの笑顔を返せないことが、<br />
なんだか申し訳ないようにも思えてくる。<br />
が、そうとは分っていても、だめなものはだめなのだ。<br />
こうなってくると、もう理屈ではなくて、<br />
ほとんど生理的なもののような気さえする。</p>

<p>動物は、出逢った相手が敵か味方か、<br />
危険なのか無害なのかということを、瞬時に判断してしまう。<br />
でも、それは、命を守るための「本能」によるもの。<br />
あるいは、よりよい子孫を残すため、<br />
「種」（シュ）の存続のための、必要不可欠な選別なのだ。<br />
「好き嫌い」で判断しているわけじゃないから、<br />
分かりやすいし、潔い。<br />
そこに「感情」が絡んでくるからこそ、人の世は複雑になる。</p>

<p>「感情の動物」であるヒトにとって何よりもの敵は、<br />
自分の感情を乱す者。<br />
そんな認識のもとに「生理的」という言葉を使うヒトという動物は、哀しい。<br />
生理的な「好き嫌い」というものが、<br />
ヒトに残された「本能」だとしたら、なんて皮肉なことかと思う。<br />
その本能によって、敵味方を選り分けているのだとしたら。</p>

<p>同じ「ヒト」という動物同士、敵も味方もないじゃないか。<br />
誰もがみんなそう思えたら、どんなにいいことだろう。<br />
そう嘆いてみても、<br />
やっぱり生理的な「好き嫌い」をひっくり返すことは難しい。</p>

<p>いつもの喫茶店で、いつもの珈琲を飲むたびに、<br />
ニンゲンって勝手なイキモノだよなぁ、と、思う。<br />
ほんとうに面倒なイキモノだ、と、つくづく思ってしまうのだ。</p>

<p></p>

<p>―2006.1.14　blog「トルニタリナイコト」―<br />
　<br />
　<br />
　</p>]]></description>
<link>http://www.mimei.info/works/archives/2007/03/post_137.html</link>
<guid>http://www.mimei.info/works/archives/2007/03/post_137.html</guid>
<category>エッセイ</category>
<pubDate>Tue, 13 Mar 2007 15:16:46 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>うさぎの数え方</title>
<description><![CDATA[<p><img alt="usaginokazoekata.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/usaginokazoekata.jpg" width="209" height="56" /></p>

<p><br />
１年２組の担任だったゆみこセンセイは、うさぎに似ていた。<br />
というような原稿を書いていて、そういえば、と思った。<br />
そういえば、うさぎは確か「１羽２羽」と数えるのじゃなかったっけ、と。<br />
うさぎは「動物」なのに、なぜ「鳥」のように１羽２羽と数えるのか。<br />
いつか調べようと思っていたのに、すっかり忘れていた。<br />
うさぎを数えることなんて、めったにないものだから。</p>

<p>PCに入っている辞書で「うさぎ」とひいてみる。<br />
『｢一羽(ｲﾁﾜ)…｣｢一匹…｣と数える｡<br />
　二羽を一単位とするときは｢一耳(ﾋﾄﾐﾐ)…｣と数える｡』<br />
ヒトミミ？<br />
しかも『二羽を一単位とするとき』というのは、いったいどんな時なのか。<br />
謎はよけいに深まるばかり。<br />
こういうときは、やはりネットだ。<br />
検索して、あちこちのサイトをのぞいてみる。</p>

<p>うさぎを１羽２羽と数えるのは、<br />
『仏教の掟として動物の肉を食べてはいけないとされていた』為だという。<br />
うさぎを「動物」ではなく「鳥」とみなして食していたのだ。<br />
だから、鳥と同じように１羽２羽と数えていた。<br />
そして、その後。<br />
徳川綱吉が「生類哀れみの令」を発したときのこと。<br />
「獣の肉」を食してはならぬ、というお達しにより、<br />
人々はうさぎを獲れなくなった。<br />
が、とある町の知恵者が２匹のウサギを獲り、<br />
「これはウ（鵜）とサギ（鷺）の二羽の鳥だ」と称して食べたのだという。<br />
それ以降、うさぎは、<br />
２匹（番：つがい）単位で数えることとなったのだ。<br />
２匹でヒトミミ（一耳）。<br />
だから、うさぎ１匹のときは「片耳」というのだとか。</p>

<p>「つがい」が１単位。<br />
そんなふうに数えられるイキモノは他にはいない（たぶん）。<br />
２匹いて初めて「ヒトミミ」と数えられるなんて、なんだか変だ。<br />
１匹でいると「片耳」だなんて、ちょっと哀しい。</p>

<p>ヒトがもし、ふたりで「一人」と数えられるイキモノであったなら、<br />
ふたり一緒にいて初めて「ヒトリ」と認められるのだとしたら、<br />
世界はいったいどうなっていただろう。</p>

<p>そんなことを考えているうちに、ぼんやりと見えてきた。<br />
物語の輪郭のようなもの。<br />
一太郎に戻って新しい頁を開き、ゆっくりとタイトルを打ち込んでいく。</p>

<p>『うさぎの数え方』</p>

<p>物語は、いたるところに潜んでいる。</p>

<p></p>

<p><br />
―2006.1.27.blog「トルニタリナイコト」―<br />
　<br />
　<br />
　</p>]]></description>
<link>http://www.mimei.info/works/archives/2007/03/post_136.html</link>
<guid>http://www.mimei.info/works/archives/2007/03/post_136.html</guid>
<category>エッセイ</category>
<pubDate>Tue, 13 Mar 2007 03:22:43 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>輪舞曲（ろんど）</title>
<description><![CDATA[<p>　<br />
<img alt="rondo.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/rondo.jpg" width="209" height="56" /><br />
　<br />
　<br />
　ネジバナを根っこごと抜いたら、ぞろぞろと蟻があふれてきた。<br />
　灰色のアスファルトの上をぐるぐると回っている。<br />
　そんなに回ったら方向が分からなくなって、<br />
　ずっと回り続けなくちゃならないよ。<br />
　永久に終わらない輪舞曲みたいに。<br />
　ひとりで蟻に向かって喋ってるあたし。バカみたい。<br />
　今頃、五年二組の教室では国語のテストをやっているはずだ。<br />
　[輪舞曲]――ちゃんと漢字も意味も覚えたのに。</p>

<p>　今朝ママは言った。<br />
　「熱はさがったけど、もう一日お休みしなさい」<br />
　なのに、圭兄ちゃんが来た途端、「お外で遊んできたら？」だって。<br />
　アホか、と思いながらも「遠くに行っちゃダメよ」というママの言いつけ通り、<br />
　律儀に家の前にいるあたしもあたしだ。</p>

<p>　パパは、毎晩夜中に帰ってきて、寝て起きて出かけていくだけ。<br />
　だから、ママが圭兄ちゃんと仲良くしたって構わないと思ってる。<br />
　そう言うと、ママは「子どもが何てこと言うの」と、さも哀しそうな顔をする。</p>

<p>　ママは、分かってない。<br />
　あたしもふたりの共犯者だってことを。<br />
　そう、ほんとうにママは何にも分かってない。<br />
　あたしが圭兄ちゃんを好きだってことさえも。</p>

<p>　三十三歳のママと、二十歳の圭兄ちゃん。そして、十一歳のあたし。<br />
　あと七年もすれば、ママは四十歳、圭兄ちゃんは、二十七歳。<br />
　そして、あたしは十八歳。<br />
　その時圭兄ちゃんが選ぶのは、ママじゃなくて、このあたし……。<br />
　<br />
　ママは気づいてないけど、あたしとママはよく似てる。<br />
　好きなものや嫌いなことが。<br />
　ということは、もしかしたらあたしの娘も、いつかきっと……？</p>

<p>　どこかの家の窓から正午の時報が聞こえる。<br />
　隣の家のテレビで、タモリが賑やかに歌いはじめた。<br />
　窓もドアも閉め切ったあたしの家だけが、ひっそりと静まっている。<br />
　お腹空いちゃったなぁ。<br />
　ひとり呟きながら、枯れ枝で黒い群れを突っつく。<br />
　慌てて散らばった蟻たちは、またすぐに戻ってきて、同じ所を回り始める。<br />
　永遠に続く輪舞曲みたいに、ぐるぐると、ぐるぐると。<br />
　<br />
　　　　　<br />
　　 <br />
＋＋＋<br />
　<br />
ゴザンスの800字。<br />
「平日、正午に」「家の前で」「タモリが」というお題で書いたもの。<br />
拙著、「ミ・メディア」にも掲載。<br />
　　<br />
　<br />
　</p>]]></description>
<link>http://www.mimei.info/works/archives/2006/11/post_135.html</link>
<guid>http://www.mimei.info/works/archives/2006/11/post_135.html</guid>
<category>ちいさな小説</category>
<pubDate>Tue, 14 Nov 2006 00:58:33 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>夏の日の午後</title>
<description><![CDATA[<p><img alt="natunohi.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/natunohi.jpg" width="209" height="56" />　　　　　　　　</p>

<p>　折り紙の「箱」を教えてくれたのは、祖母だった。<br />
　開け放した窓の網戸から、如雨露で水をまくように蝉の声が降りそそぎ、座卓をはさんで向かいあわせに座った祖母は、まだ年若く美しかった。ゆっくりと首をふる扇風機の風に、ふたりで折ったいくつもの箱が、ときおり座卓をすべっては、かさりと音をたてて畳に落ちた。いつまでも暮れないのではないかと思うような、夏の日の午後だった。</p>

<p><br />
　九歳の誕生日を目の前にして、夏休みを祖母の家で過ごすことになった。送ってきてくれた母は、その日のうちに東京に戻っていった。それほど長く母と離れるのは初めてのことだったが、不安はなかった。四歳になるまで一緒に暮らしていた祖母のことが、わたしは大好きだったのだ。</p>

<p>　その頃、祖母の家は、小田原にあった。<br />
　駅からバスに乗り、うねうねとした坂道を十五分ほどのぼっていく。道の両側には雑木林の木々が迫り、そのあいまに、ぽつんぽつんと家が建っている。たいていの家は、生け垣やブロック塀に囲まれた古い二階家だったが、祖母の家だけは今さっき建ったばかりのように新しく、囲いも庭木もなかった。まばらな雑草の生えた空き地の上に、ぽんと置いたような小さくて四角い平屋だった。祖父は、わたしが一歳の誕生日を迎える前に亡くなっていたので、その箱のような家に祖母はひとりで暮らしていた。</p>

<p>　六畳がふた間に、板敷きの台所、水色のタイルが敷きつめられた風呂場と、トイレ。引き戸のついた小さな納戸。台所に面した部屋には、座卓や茶箪笥が置かれ、テレビの横で、草色の扇風機がまわっていた。もうひとつの六畳間にあるのは、赤い絹布がかけられた三面鏡と小さな文机、そして箪笥だけだった。よけいなものは何もなかったが、殺風景ではなかった。畳はひんやりと青く、窓をあけると風が静かに通りぬけていく、心地好い家だった。</p>

<p>　初めのうちは、祖母も、わたしが退屈しないようにと気使ってくれたのだろう。バスに乗って海へ行ったり、城下公園にいる象を見に行ったりと、毎日どこかへ連れていってくれた。だが、ひとりっ子で人見知りの激しかったわたしは、人混みに出るよりも、家にいるほうが好きだった。特別な何処かへ出かけなくても、傍らに祖母がいるということだけで十分だったのだ。</p>

<p>　朝ごはんを食べおえると、麦わら帽子をかぶり、家の裏手からはじまっている雑木林にでかけ、草花をつんだり、カブト虫やしじみ蝶をつかまえたり。昼ごはんのあとは、強い陽射しを避けて、家のなかで本を読んだり、人形遊びをしたり。陽が落ちれば、テレビを見ながら夕飯を食べ、ふたりで風呂に入り、たっぷりと汗を流したからだを冷えた西瓜でさました。ふたつ並べて敷いた布団の上をごろごろと転がっているうちに、ことんと眠りにつく。いつしか、祖母とわたしの毎日は、そんな風に静かに過ぎていくようになっていた。</p>

<p>　それでも、夜の闇の深さには、なかなか慣れることができなかった。太陽が沈み、スィッチを切るように陽射しが消えると、ちいさな家はすっぽりと闇に包まれた。窓の外をのぞいても、何も見えなかった。すべてのものが闇にとけて消えてしまって、この家にいるわたし達だけが、取り残されてしまったかのようだった。そう思うと、無性に淋しかった。母と離れた心細さとも違う、言いようのない淋しさだった。わたしは、三面鏡にむかう祖母の背中におぶさるようにして、そっと訊いた。「ここにひとりでいると、淋しくない？」。祖母は前を向いたまま、首を横に振った。「もう慣れちゃったから大丈夫。おばあちゃんは、おとなだもの」。頬に白いクリームをのせた祖母は、そう言って、鏡のなかで静かに笑った。</p>

<p>　いつものように昼食をとったあと、祖母があとかたづけを終えるのを待って、わたしは折り紙を座卓のうえに並べた。前日、駅前のスーパーマーケットに行ったとき、ねだって買ってもらったものだった。十二色の折り紙と、千代紙模様の折り紙を、一組ずつ。</p>

<p>　座卓を挟んで向かい合って座ると、祖母は、「なにを折ろうか」とわたしに訊いた。そういえば、一緒に暮らしていたころも祖母はよく折り紙を折ってくれた。わたしはまだ幼くて、教えてもらっても思うように作れず、ただ祖母の指先をみつめては、なにができるのかと待っていることのほうが多かった。</p>

<p>「今はもう、なんでも作れるんだよ。鶴だって、船だって、かぶとだって、ぜんぶひとりで作れるの」<br />
　得意気に言うわたしの顔を見て、微笑みながら肯いた祖母は、<br />
「そうなの。すごいわね。それじゃあ、なににしようかな」<br />
　と首をかしげたあと、ぱっと大きな笑顔になって言った。<br />
　じゃあ、ハコは？<br />
　ハコ？</p>

<p>　祖母は、十二色のなかから、紫の折り紙を一枚取りだして、半分に折りはじめる。わたしも、急いで青い折り紙を抜きとり、祖母の手元を見ながら、同じように折っていく。<br />
　半分に折って、又半分にして小さな四角。<br />
　一度ひろげて元にもどし、三角に折って、また三角に。<br />
　その角をひらいて、小さな四角を作り、反対側も同じように。<br />
　また元にもどして、今度は半分の半分、細い長方形に。<br />
　そうやって筋をつけては、また、開いて元にもどしていく。</p>

<p>「元にもどしてばかりだね。これじゃいつまでたっても、なんにもできないよ」<br />
「これはね、最初にきっちりと筋をつけておくのが大切なの」<br />
　ふうん――。なんとなく腑に落ちないまま、祖母の真似をして、筋をつけては元にもどした。広げた折り紙には、縦横ななめにたくさんの線が走っているだけだった。その線を確かめた祖母は、にっこりと笑って、わたしを見た。</p>

<p>「それじゃあね、まず、こうやって三角に折るでしょ」<br />
　向かい合った二つの角を、折り紙の中心に向かって三角に折る。できたのは、亀の甲羅のような六角形だ。その六角形の長い辺を、中心に向けてたたむ。熨斗袋の上下を開いたような形。今折った部分を立てながら、上と下にある三角を内側に折りこんでいく。と、一枚の折り紙は、あっけないほど簡単に、ちいさな紫の「箱」になった。<br />
　ほんとだ。箱だ。</p>

<p>　わたしも、さっそく同じように折りはじめる。手順は少ないのですぐに覚えられたけれど、最後の三角を折りこむところが、むずかしい。烏賊のあたまのような三角の部分を折るときに、箱の側面とのあいだにできる余りを、うまく内側に畳みこまなければならないのだ。そこがきっちりと収まらないと、箱は歪んでしまう。祖母の作った箱の底には、四つの三角が行儀よく頭を合わせて集まっている。わたしの作った箱の底の三角のひとつには白い透き間があき、他の三角は窮屈そうに重なっている。</p>

<p>　ね。だから、最初に線をつけるときに、ちゃんと筋をつけておくのがこつなのよ。<br />
　ああ、そうか――。わたしはもう一度折り紙を開いて、元にもどし、今度は、きっちりと線をつけていった。指で強くていねいにおさえこみ、丸い爪の先でぎぎっとこすって筋をつける。あまりに強くこすりすぎたためか、筋が、ところどころ白くひびわれている。広げて元にもどした青い折り紙は、反射した陽射しが模様をつくるプールの底のようだった。</p>

<p>　十分に線がついているのを確かめてから、まず、三角を折ってみる。たしかに、そうやってきっちり筋がついた折り紙は、力を加えなくても簡単に形ができていく。たたみこむ三角の側面も、自ら収まっていくかのように、すんなりと立ち上がった。<br />
　青くて小さな箱がひとつ。折り皺が寄って波立っているような青い箱は、手のひらにのせると、扇風機の風に飛んでいってしまうほどに軽かった。</p>

<p>　「箱」だと思うと、なにかを入れてみたくなる。さて、何を入れよう。そう思ってあたりを見まわしていると、祖母が気づいて立ちあがり、茶箪笥をあけた。青や赤や黄色のセロファンに包まれたラムネ菓子を取りだして、こちらに差し出す。わたしは、それを、紫の箱と青い箱にそっと入れてみた。座卓のうえは、たちまち、駄菓子屋の店先のように華やいだ。</p>

<p>　折り紙の「鶴」や「船」は、形を作ってしまえば、それで終わりだけれど、「箱」は違う。自分で作ったものを、ちゃんと使うことができるのだ。わたしは、嬉しくなって、また一枚、ピンクの折り紙を取りだした。<br />
　結局、その日のうちに、十二個の箱ができあがった。色とりどりの箱は、文机の上に並べて飾った。祖母は、ラムネを包んでいたセロファンで小さなちいさな箱を作ってみせた。その薄くて透明な箱も、折り紙の箱のなかに入れて飾った。</p>

<p>　わたしは、午後になると、来る日も来る日も箱を作っていた。<br />
　折り紙だけでは飽きたらず、家のなかにあるあらゆる紙を箱に変えていった。広げた新聞紙を四角に切って作った大きな箱は、祖母に買ってもらった着せ替え人形の家にした。新聞の折り込みチラシで作った箱は、つるつると艶やかで美しかった。過ぎてしまったカレンダーの写真を使った時には、万華鏡のような不思議な色合いの箱になった。</p>

<p>　文机に並べた箱には、色々なものが入れられた。消しゴムや、髪留め。雑木林で拾ってきた丸い小石や、青い木の実。摘んできた昼顔は、緑色の箱のなかで萎れていった。広告の箱に入れられたカブト虫は、足を滑らせて居心地が悪そうだった。キャンディーや煎餅などのおやつは、いつも箱に入れてもらった。遊んでくたくたになった箱は、さやいんげんの筋や、鉛筆を削った滓を入れるごみ箱にした。</p>

<p>　箱のなかに箱が重なり、文机の上が箱であふれた頃、祖母とわたしの夏休みが終わった。<br />
　お気に入りのいくつかの箱をていねいにたたんで、帰り支度のボストンバッグのなかに入れた。顔をあげると、祖母が笑って見ていた。いつもと変わらず穏やかに微笑んでいるのに、その笑顔はどこか淋しそうだった。<br />
　わたしは赤い千代紙で作った一番きれいな箱を取りだし、「プレゼント」と言って差し出した。祖母は、「いいの？」と訊いてから、ありがとうと肯き、手のひらにのせた。レースのカーテンを膨らませて、乾いた風が家のなかを通り抜けていった。祖母とわたしのあいだで、赤い箱が、揺れていた。</p>

<p><br />
　遠い日のできごとを思いだそうとするとき、わたしはいつも箱を思い浮かべる。ささやかな記憶のかけらが折り重なって収まっている小さな箱。胸に描く「記憶の小箱」は、あの赤い千代紙の箱によく似ている。</p>

<p>　赤い小箱の片隅で、今はもういない祖母と幼いわたしは、箱を折る。ゆっくりとまわる扇風機の風に吹かれながら、色とりどりの箱を折り続ける。淋しいような満ち足りたような時の中、夏の日の午後は、いつまでも、暮れることがない。</p>

<p><br />
+++</p>

<p>この作品は、ポプラ社「作品市場」にて、<br />
長い間ランキング１位に座らせていただいていた。<br />
何がどうということもないエッセイなのに、<br />
たくさんの方に読んでいただけたこと、たくさんの感想をいただけたこと、<br />
感謝しています。</p>

<p>寄せていただいた感想の中には、<br />
自分の子どもの頃のことを思い出したと言って、<br />
いろいろな思い出を書いてくださった方が多かったのが印象的でした。<br />
読まれた方の記憶の小箱のふたをそっと開けるような、<br />
そんなエッセイを書きたいと思っていたので、<br />
そのことも又、とても嬉しいことでした。<br />
ほんとうにどうもありがとう。</p>

<p> </p>]]></description>
<link>http://www.mimei.info/works/archives/2006/06/post_134.html</link>
<guid>http://www.mimei.info/works/archives/2006/06/post_134.html</guid>
<category>「振り向いた顔」（記憶の小箱）</category>
<pubDate>Fri, 30 Jun 2006 00:32:28 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>夾竹桃</title>
<description><![CDATA[<p><img alt="1.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/1.jpg" width="450" height="245" /><br />
　<br />
　<br />
<img alt="2.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/2.jpg" width="430" height="274" /><br />
　<br />
　<br />
　</p>]]></description>
<link>http://www.mimei.info/works/archives/2006/01/post_133.html</link>
<guid>http://www.mimei.info/works/archives/2006/01/post_133.html</guid>
<category>シ（詩）ノヨウナモノ</category>
<pubDate>Wed, 25 Jan 2006 00:59:03 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>耽美なる『相棒』―ドラマ・レビュー―</title>
<description><![CDATA[<p><img alt="aibou.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/aibou.jpg" width="209" height="56" /></p>

<p>ずっと注目しているドラマ『相棒』 <br />
特に去年の秋からのシーズンⅣになってからは、 <br />
独自路線を突っ走ってる。 <br />
扱うネタが、言ってみれば「オタク」系なのだ。 <br />
いや、「フェチ」系と言ってもいいくらい。 <br />
もちろん、いわゆる社会派モノとかサスペンス系とかもあるけど、 <br />
（その回ごとに脚本家がちがう） <br />
なんと言っても秀逸なのは、このフェチ系。 </p>

<p>その中でも最もすごかったのは、（注：以下、ネタバレあり） <br />
２話連続モノだった「密やかな連続殺人」と「悪魔の囁き」 <br />
（タイトルからしてすごい） <br />
オンナを殺しては、その片耳のピアスを奪って蒐集する男。 <br />
その容疑者である村木の描いた、おどろおどろしい絵。 <br />
黒魔術のような妖しげな祭壇。 <br />
犯人を分析する精神科の妖しい女医。 <br />
しかも、その分析は、 <br />
『ピアスにはその昔、悪霊が耳孔から入り込むのを防ぐ意味合いがあった。それを外すことで人は、相手に暴行を加えることなく支配気分を味わえる』というもの。 <br />
１話のラストは、ビルから飛び降りた容疑者が、 <br />
アスファルトに仰向けに倒れているところ。 <br />
滲み出た血が、からだの左右にじわじわと広がっていく。 <br />
まるで蝙蝠の羽ように。あるいは悪魔の翼ように。 </p>

<p>ふつう、こういう題材でドラマを作ると、 <br />
なんだか安っぽいオカルトものになりがちだけど、 <br />
あるいは、そのシーンだけが浮いてしまいがちだけど、 <br />
この相棒は、その「世界」を創るのがすごく上手い。 <br />
「耽美」とさえ言えるほどの仕上がりになっていて、 <br />
思わずぞくぞくしてしまう。 <br />
この回なんて、事件現場のふつうの（？）死体までが、 <br />
まるで球体関節人形のように美しく撮られていたし。 <br />
（それに比べて、今日ちらっと見たドラマに映った死体は哀しかった。 <br />
「美意識」ゆえに飾り立てられた死体、という設定なのに、 <br />
どこにも美意識が見えなくて） </p>

<p>そして、何よりもこのドラマが秀逸なのは、 <br />
その耽美さと、現実世界とのバランスの取り方だ。 <br />
相反する世界が、ごく自然に溶けこんでいる。 <br />
これこそが、この「相棒」のふたりのキャラの力。 <br />
ふたりが、現実と非現実のはざまを行き来することで、 <br />
（見る者にそうとは感じさせない自然さで） <br />
このドラマがお茶の間に映し出される番組として成立している。 </p>

<p>ここ数年、「わかりやすさ」が時代のキーワードみたいになっているけれど、 <br />
「相棒」は、それを突き破ろうとしている。 <br />
実際、今、相棒ファンはものすごく多いけど、 <br />
その中でも「今回のはよくわかんなかった」という意見が出たりする。 <br />
もっと現実的な動機が欲しかった、という感想が出ることも。 <br />
たしかにそうだろうと思う。 <br />
上に書いた「密やかな連続殺人」にしても、 <br />
オカルトと見るか、耽美と感じるかで評価はまったく違うはず。 <br />
でも、どうやら「相棒」のスタッフはそれを承知の上でやっているらしい。 <br />
元日スペシャルとて、事件の核は「暗示で人が殺せるか」というもので、 <br />
（これを核にすること自体がもうオキテ破りのような） <br />
しかも結局最後まで謎は謎のまま。 <br />
これについてもスタッフはサイトの日記に、 <br />
「元日に新しい風を吹き込めたら」と書いている。 <br />
いわば確信犯。 <br />
カンタンで分かりやすいものじゃなくたっていいじゃん、 <br />
もっと別な楽しみ方だってあるんだよ、という姿勢。 <br />
スバラシイ。 </p>

<p>どうか今年もどんどん突っ走ってほしいと思う。 <br />
もっとフェチっぽく。もっと耽美に。 </p>

<p></p>

<p><br />
＋＋＋</p>

<p>06.1.9<br />
某ネットワークに書いたもの。<br />
ずっと書きたかったことなので、<br />
ブログにもアップしておきたいと思ったのだけど、<br />
どこに入れるか迷ってしまったので、結局ここに置くことにいたしました。<br />
他の文章とちょっとカラーが違うけれど、お許しを。</p>

<p><br />
</p>]]></description>
<link>http://www.mimei.info/works/archives/2006/01/post_132.html</link>
<guid>http://www.mimei.info/works/archives/2006/01/post_132.html</guid>
<category>レビュー</category>
<pubDate>Wed, 11 Jan 2006 01:20:32 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>オトナもコドモもあるもんか―「アカシアからたち麦畑」―</title>
<description><![CDATA[<p><img alt="otonamo.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/otonamo.jpg" width="209" height="56" /></p>

<p></p>

<p>胸の中で、なんとはなしに「ああ、可笑しかった」と呟いて、<br />
ふと気づいて、「何が？」と首をひねった。<br />
お笑い番組を見ていたわけでもない。<br />
宴会で大騒ぎをしていたわけでもない。<br />
今の今まで、ただ本を読んでいただけだ。</p>

<p>別に大笑いするような本ではないのだ。<br />
それなのに、涙を流して笑ったあとのような余韻が、喉の奥に残っている。<br />
涙を流して……？<br />
そう、それは思い切り泣いたあとの、どこか心地良い虚脱感にも似ている。<br />
いったい、これは何なのだろう。</p>

<p>その本は、「アカシア　からたち　麦畑」というエッセイ集だった。<br />
著者は、佐野洋子。<br />
画家でモノカキ、そして元・谷川俊太郎夫人。</p>

<p>子どもだった著者が見ていた風景が、場面が、記憶が、<br />
短いエッセイとなって連なっていく。<br />
大連にいた頃、隣の家に住んでいた美しい少女のこと。<br />
日本に「引き上げ」てきてから暮らした小さな村のこと。<br />
がりがりに痩せていて、ゴボウのように色が黒くて、<br />
『ちったあ。愛きょうよくしたらどうだ』と言われつづけていた女の子。<br />
そんな子どもが、オトナになっていくまでの、いくつかの景色を、<br />
著者は俯瞰するように書き綴っている。<br />
オトナの佐野洋子が、子どもだった自分を見つめて書いているのに、<br />
確かに、一歩退いて眺めているのに、そこにはなぜか隔たりがない。<br />
子どもにかえって書いているのでもなく、<br />
オトナとして訳知り顔で書いているのでもないのだ。<br />
だからなのか、その世界は、妙に生々しい。</p>

<p>たとえば、「百日草」というエッセイ。<br />
真夏の午後、妹が生まれる日。<br />
締め切った座敷にいる母親の「異様な声」を聞きながら、<br />
父親は、板の間のたらいの前で膝を抱えて座り、<br />
１０歳の「私」は、その声に耐えかねて、家の前の川っぷちに逃げていく。<br />
1年前、弟が死んだ時に父親が植えた百日草を１本丸裸にむしりながら、<br />
彼女は思う。<br />
『しかし、生まれる瞬間をたしかめたかったので、たらいの前にもいたかった。<br />
　それに「生まれたら、すいかを割る」と父が言っていたので、<br />
　すいかのそばにもいたかった』<br />
仕方なく家に戻り耳をふさいでいると、ついに赤ん坊の泣き声がした。<br />
『母は赤ん坊が生まれたとたん、ごく普通の声で、お産婆さんと話をしていた。<br />
　私は、なんだか、だまされたような気がした』<br />
父親は生まれてくる子どもを「男の子」だと信じていたのに、<br />
赤ん坊は小さな女の子だった。<br />
『父はすいかを大きなまな板の上で割った。<br />
　私は桃太郎のおばあさんになった気がした』</p>

<p>佐野洋子は、易しいコトバで、ヒトリ語りをするように書き綴っている。<br />
それを目で追っている間中、そのコトバひとつひとつが、<br />
ぽろぽろとカラダの中に落ちてくる。<br />
読んでいる自分にも同じ経験があったかのようなキモチになって、<br />
笑ったり泣いたり、切なく哀しかったり、怒りに震えたりしてしまう。</p>

<p>どうしてこんなに親密な感じがするのだろう。<br />
著者と重なる経験などあるはずもないのに、どれもが覚えがあるようで、<br />
ひどく痛みを感じたり、甘痒くうずいたりしてしまうのだ。</p>

<p>本の最後に、後書きのようにして、長い文章が載っている。<br />
それを読んだとき、初めてわたしは、ああ、そうか、と頷いた。</p>

<p>著者の息子「げんちゃん」が５歳の頃。<br />
げんちゃんのことが好きな「かずみちゃん」という女の子がいた。<br />
だが、息子は「まどかちゃん」が好きで、<br />
まどかちゃんは皆のアイドルで、だから誰も好きではなかった。<br />
『ある日かずみちゃんが、私に言った。<br />
　「わたし、げんちゃんが好きなんだけど、げんちゃん、ちがうみたい、でもいいの」<br />
　私は何も言わなかったけれど、かずみちゃんの肩をゆすぶって、<br />
　長い女の人生を一緒に歩いていきたいと思った。<br />
　大人も子供もあるもんか。』</p>

<p>佐野洋子は、子供の自分も、大人の自分も、たいして変りはないと思っているのだ。<br />
まだ拙く、幼くとも、生と死を携えながら生きていることに変りはない。<br />
何十年もかかって我が身を励ましながら生きてきたけれど、<br />
今の自分は、すべて、あの頃の自分と繋がっているのだ。<br />
そして、この先もずっと繋がっていくのだ、と。</p>

<p>読んでいるオトナのわたしも、幼い子どもだった自分と繋がっている。<br />
だからこそ、こんなに易しく、さりげなく書かれたエッセイが、<br />
こんなにカラダを揺さぶるのだろう。</p>

<p>今もまだ、甘苦い余韻が、喉の奥に残っている。<br />
カラダの芯に沁みている。<br />
そういえば、大笑いしたあとの虚脱感と、<br />
大泣きしたあとの空虚さは、よく似ている。<br />
そして。<br />
子どもの頃、母親に叱られながらも、<br />
唇が青くなるまでプールに浸かっていたあの夏の日の夕暮れの<br />
心地よいけだるさにも、よく似ている。</p>

<p>涙も笑いも、あの夏の日から、ずっと続いていたのだ。<br />
「生きている」ということに、<br />
オトナもコドモもあるもんか。</p>

<p>　　<br />
　　　<br />
　　<br />
　　　<br />
　　　</p>]]></description>
<link>http://www.mimei.info/works/archives/2005/12/post_64.html</link>
<guid>http://www.mimei.info/works/archives/2005/12/post_64.html</guid>
<category>レビュー</category>
<pubDate>Sun, 11 Dec 2005 16:13:55 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>マン、オブ、ウォー―江國香織「泳ぐのに安全でも適切でもありません―</title>
<description><![CDATA[<p><img alt="manofwar.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/manofwar.jpg" width="209" height="56" /></p>

<p><br />
海には、青のグラデーションが波打っていた。<br />
白い砂浜は悠々と長く伸び、人影もまばらだ。<br />
遠くの波打ち際で、ジュニアスクールの子ども達がはしゃいでいるが、<br />
その歓声は波と風の音にかきまわされて、夢の中の音のようにくぐもっている。<br />
わたしたちの目の前には、白く簡素な札が立ちはだかり、<br />
青い風景を四角く切り取っていた。<br />
【WARNING】という大文字の下に、細長い紐のような生き物の絵。<br />
そして、Portuguese man-of-warという綴り。<br />
マン、オブ、ウォー。<br />
たどたどしく読みあげると、傍らで夫が言った。<br />
「クラゲだ」</p>

<p>強風のせいか波も高く荒い。<br />
だが、そのことにヒトコトも触れていない。<br />
クラゲがいます。ただそれだけだ。<br />
夫が、どうする？　と目で問いかける。<br />
ボディボードとランチボックス、ドリンクを車に積みこみ、<br />
太陽に炙られるまえのワイキキを抜け出して、ここまで来たのだ。<br />
この島で、こんなに人が少なくて、これほど美しいビーチは珍しい。<br />
水を見たら飛び込まずにはいられないわたしが、躊躇するはずもない。<br />
夫は、仕方がないな、という笑みを浮かべて、<br />
抱えていたビーチチェアを白砂に降ろした。</p>

<p><br />
「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」<br />
絵國香織の短編集のタイトルである。<br />
著者が実際にアメリカを旅していたときに見た立て札の言葉だそうだ。<br />
このコトバは、「警告」ではあっても「禁止」ではない。<br />
そこが、アメリカらしいともいえる。<br />
日本では、日常（公式発言においては、もっと）曖昧な表現を好むくせに、<br />
海水浴場には「遊泳禁止」の立て札が立つ。<br />
「禁止」したのだから、ここで溺れたとしても、<br />
「わたし達に責任はありません」<br />
そう言い逃れができるように。</p>

<p>It's not safe or suitable for swim.<br />
安全でも適切でもありません。<br />
それでも泳ぎたいのなら止めません。<br />
あとはあなた自身の問題です。<br />
この立て札には、そんな続きがあるような気がする。</p>

<p>本の帯には、こう書かれている。<br />
「いろんな生活、いろんな人生、いろんな人々。<br />
　とりどりで、不可解で。」<br />
確かに、この短編集に出てくる人たちは、皆、どこか変わっている。<br />
死に瀕した「ばばちゃん」を見舞ったあとで、揃ってサングラスをかけ、<br />
ワインを啜り、５分に一度は笑い声をたてる母と、ふたりの娘。<br />
兄の元妻に自分の夫が惹かれている（しかも、彼は犬小屋で寝ている！）のを<br />
知りながら、ふたりを責めることもなく、「<br />
みんな変だわ」と怒りを含まない声で呟く女。<br />
「私の好きな男が妻と別れないのは、そこに帰るのが彼の習慣だからだろう」<br />
人にはみんな習慣があるのだからと、全てを受け入れる帽子のデザイナー。</p>

<p>彼女たちは、誰もが、自分の人生を、<br />
ちょっと退いた目でみつめているように思える。<br />
なんらかの渦中にあるというのに、<br />
感情を煮えたぎらせたり、迸らせたりはしない。<br />
はじめての恋を失った少女だけは、さすがに泣き通すが、<br />
それでも食事だけはしっかりと採る。</p>

<p>人生という川は、誰にとっても、「泳ぐのに安全でも適切でも」ない。<br />
だが、どんな川であろうと、飛び込んだのは自分だ。<br />
人に責任を押しつけることはできない。<br />
すべては、自分自身の問題。<br />
この短編集に出てくる女たちは、皆、そのことを知っている。<br />
静かに悩みながら、密やかに泣きながらも、自分の手足で泳いでいく女たちは、<br />
切なく、哀しく、凛々しく、愛おしい。</p>

<p><br />
南国の海で、結局、わたしはクラゲに刺されなかった。<br />
刺されたのは、泳ぐことに渋々と同意した夫のほうだった。<br />
可哀相に。<br />
東から西まで果てしなくのびる白砂のビーチを見渡すと、<br />
子ども達の歓声の向こうに、ライフガードの赤い旗がたなびいている。<br />
足を引きずって歩く夫の腕を取りながら、熱い砂を踏んで歩く。<br />
ライフガードの十字がペイントされたごつい４ＷＤには、人影がない。<br />
見ると、すぐそばの木陰に置いたビーチチェアで<br />
褐色の肌の大男が眠っている。<br />
わたしたちが近づくと、その気配だけで薄く目をあける。<br />
夫が、自分の臑を指さして、彼に話しかける。<br />
その傷は、赤く長く、まるで刀傷のようだ。<br />
ライフガードは驚きもせずに肯いて、車の横に引っかけてあった<br />
透明のスポレーボトルを取り上げて、その傷めがけ、盛大に噴射する。<br />
ん？　夫がわたしの顔を見て首をかしげる。<br />
なに？　どうしたの？　沁みるの？　痛いの？<br />
責任の一端を感じているわたしは、気が気ではない。<br />
いや、この匂い。<br />
匂い？　そういえば……。<br />
夫が、ライフガードに、それは何？　と聞く。<br />
厚い唇をにっと歪めてから、彼は言った。<br />
「ビネガー」<br />
毒を中和して溶かすのだという。<br />
これが、イチバン、と自信たっぷりに言う。<br />
大男を見上げながら、Thank youという単語を、思い切りばらまいて、<br />
ビーチについた自分たちの足跡を崩しながら、戻っていく。<br />
振り向くと、男は、何事もなかったように、ビーチチェアで目を閉じていた。<br />
遙か遠く置き去りにされたようなチェアに戻ったとき、<br />
腫れは魔法のようにひいていた。</p>

<p><br />
溺れそうになりながらも、溺れずに泳いでいく女たち。<br />
その静かな物語は、しんしんと切なかった。<br />
だが、読み終えたとき、わたしは、なぜか微笑んでいた。<br />
しばらくすると、幸福な気持ちにさえなった。<br />
きっと。<br />
物語のなかに潜んでいた筆者の“人生への愛情”が、<br />
それぞれの痛みや哀しみを、優しく溶かしてくれたにちがいない。<br />
魔法のように。</p>

<p><br />
</p>]]></description>
<link>http://www.mimei.info/works/archives/2005/12/post_9.html</link>
<guid>http://www.mimei.info/works/archives/2005/12/post_9.html</guid>
<category>レビュー</category>
<pubDate>Sun, 11 Dec 2005 15:59:51 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>そのナニカが知りたくて―映画「男はつらいよ」―</title>
<description><![CDATA[<p><img alt="nanika.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/nanika.jpg" width="209" height="56" /></p>

<p><br />
ここのところ、「寅さん」にはまっている。<br />
そう、「渥美清」演じるところの、あの「車寅二郎」<br />
山田洋次監督の「男はつらいよ」という、あの映画。</p>

<p>もともと、オットは年季の入った「寅さんファン」だった。<br />
なんていうと、髭が濃くて、ごっつい顔して、ジャンパー（死語！）なんぞを<br />
年がら年中着てるような男臭い奴を思い浮かべるかもしれないけど、<br />
オットは、まるで正反対のタイプである。<br />
だから、彼が「寅さんが好き」というと、みんな「なぜ？」と首を傾げる。<br />
いったい、どこに共通点があるのか、と。</p>

<p>仕事のために数年間海外で暮らしてたオットは、<br />
まいとし年末に一時帰国するたびに、「男はつらいよ」を見に行ったのだという。<br />
寅さんを見ると、「帰ってきたんだなぁ」としみじみ想い、<br />
ニホンって良いなぁと嬉しくなり、<br />
ああ、年末だなぁ。正月がくるなぁ。と実感できたのだと言う。</p>

<p>最初は、わたしも「寅さんが好き」という彼を、<br />
変わった奴だとしか思っていなかった。<br />
まだ野原や畑があちこちにあった東京に生まれ、<br />
そのままずっと東京に育ったドメスティックなわたしは、<br />
日本映画というものにあまり興味がなかった。<br />
憧れは、アメリカの陽気さ、明るさ。自由で合理的な生活。<br />
そういうものばかりを追いかけてきた。<br />
学生時代には、潮風で変色した髪にバンダナを巻き、<br />
サーフボードを車に積んでは、淀んだ海の黒い砂浜へと出かけていた。<br />
ソニープラザに行っては、アメリカの雑貨やステーショナリーに憧れ、<br />
カラフルなジェリービーンズや、舌が赤く染まるキャンディを買った。<br />
２０代半ばまでは、そんなふうに過ぎていった。</p>

<p>オットと出会い、彼の力説にうながされ、<br />
映画館で寅さんを見たのは、２０代後半のことだった。<br />
それまでにもテレビでちらりちらりと見たことはあったけれど、<br />
それほど真剣に観たことはなかった。<br />
で、初体験の感想は。<br />
面白かった。<br />
なんだかとても可笑しいのだけど、それは、ドタバタ喜劇のおかしさとは<br />
全く異なったもので、どこか哀しかった。<br />
シリーズモノのコメディ娯楽映画というような認識は、<br />
その初体験で、みごとにコッパミジンになっていた。<br />
映画館の客席に広がるくすくす笑いは、どことなく連帯感があって不思議だった。</p>

<p>渥美清が亡くなって、６年。<br />
文庫本になった「知られざる　渥美清」（大下英治著　廣済堂出版）<br />
というを本を、オットが持ち帰ってきた。面白いから、読んでみて、と。<br />
唸った。すごかった。<br />
インタビューで語っている寅さんの、いや、渥美清のコトバに胸が痛くなった。<br />
これほど役者として人生をまっとうしたヒトもいないだろう。<br />
その徹底した生き方には、凄みさえ感じる。<br />
銀幕に映る寅さんは、限りなく優しいオトコだというのに。<br />
山田洋次と渥美清は、精魂こめて、あの映画を作ってきたのだ。<br />
「シリーズモノ」に生まれがちな「惰性」など、どこにもナイ。<br />
流されることなく、緻密に繊細に、妥協することなく。<br />
「男はつらいよ」という映画は、苦しいほどに真面目に撮られた映画だった。<br />
文学にたとえるなら、真っ直ぐ、正当な純文学である。</p>

<p>ちゃんと寅さんを観てみたい。<br />
本を読み終えたとき、そう思っていた。<br />
それから、毎週レンタルビデオ屋に行っては、２巻ずつ借りている。<br />
自分のトシのせいもあるのかもしれないけれど、<br />
寅さんを観ていると、心が落ち着く。ほっとする。<br />
アタマとココロが柔らかくなっていく。<br />
カラダがほどけていく。</p>

<p>形ばかりの体裁などにこだわることなく、フツウの暮らしをする人々。<br />
寝て起きて、食べて、仕事をして、笑って、怒って、泣いて。<br />
苦しい者には手を貸して、たまの祝い事には多いに羽目をはずし。<br />
正月には、着物を着て（それも、決して、華美なものではなく）<br />
茶の間にあつまって、おめでとうと言い合って。<br />
夏には、打ち水、風鈴、西瓜、朝顔、浴衣。<br />
汗して働くヒトの首には、洗い晒しのタオルがまかれ、<br />
裏街道を歩くオンナの薄暗いアパートには、小さな三面鏡がぽつんとある。</p>

<p>そう。映画のなかに描かれているのは、紛れもないニホン。<br />
映画館で感じた、不思議な連帯感は、<br />
みんな同じ「日本」という国に暮らしているという、<br />
潜在的な「連帯感」だったのかもしれない。<br />
山田洋次は、日本人の「原風景」というものを知っている。<br />
渥美清は、日本人の心の機微を熟知している。<br />
年齢、性別に関係なく、誰でもが懐かしいと思ってしまう「何か」が、<br />
「男はつらいよ」には、満ちあふれている。<br />
それは、決して押しつけがましくなく、いつのまにか心に溶けこんでいる<br />
「何か」なのだ。</p>

<p>幼い頃の記憶を探って、文章にしようとすると、<br />
なぜか、「出来事」よりも「風景」ばかりが浮かんでくる。<br />
古くて小さな家の佇まい。<br />
縁側の蒸れた木の匂い。<br />
玄関の三和土のしっとりとした冷たさ。<br />
庭の隅には、オオバコやハコベといった雑草が芽をだし、<br />
ひんやりとした畳に寝そべってうつらうつらと目を閉じると、<br />
夢の向こうからくぐもった風鈴の音がする。</p>

<p>小さな記憶の欠片から、次々に引き出される、ささいな日常の風景。<br />
そこには、たしかに、日本人の原風景がある。<br />
「今」という現代に生きていても、忘れたくはない風景。<br />
いや、忘れようとしたって、忘れられるものではないのかもしれない。<br />
それは記憶の中にあるというより、<br />
カラダの中の細胞に組み込まれているとでもいうようなものだから。</p>

<p>原風景に潜むナニカが、おいでおいでと、手招きをしている。<br />
そんなことを想いながら、<br />
わたしは、ちいさな風景をコトバに変換しつづける。<br />
夢とウツツのはざまを漂うようにして、ぽつぽつとキーを打ちつづける。</p>

<p>日本人なら、誰でもが、無条件に「懐かしい」と思える「何か」<br />
その「何か」に惹かれて、<br />
その「何か」が知りたくて、<br />
わたしは今日も「男はつらいよ」を観てしまう。<br />
寅さんと共に、泣き笑いしながら。</p>

<p><br />
</p>]]></description>
<link>http://www.mimei.info/works/archives/2005/12/post_8.html</link>
<guid>http://www.mimei.info/works/archives/2005/12/post_8.html</guid>
<category>レビュー</category>
<pubDate>Sun, 11 Dec 2005 15:49:09 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>生と性―井坂洋子詩集―</title>
<description><![CDATA[<p><img alt="isakayoko.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/isakayoko.jpg" width="209" height="56" /></p>

<p>並べられているのは、決して難解なコトバではない。 <br />
だが、今風の安易で軽い標識のような詩とは、一線を画している。 <br />
選び抜いたコトバを、研ぎ澄まされた感覚で丁寧にひとつひとつ並べていくと、 <br />
フツウのコトバは、フツウでなくなる。 <br />
頁をめくりながら、わたしは、そのことに衝撃を受けていた。 </p>

<p>　　　　　　　　　　　「朝礼」 <br />
　　　　　　　雨に濡れると <br />
　　　　　　　アイロンの匂いがして <br />
　　　　　　　湯気がこもるジャンパースカートの <br />
　　　　　　　箱襞に捩れた <br />
　　　　　　　糸くずも生真面目に整列する </p>

<p>いきなり、アイロンの蒸れた匂いがあたりに漂う。 <br />
箱襞の制服を着た女生徒たち。 <br />
「少女」のなかにひっそりと隠れている「女」が匂うのだ。 <br />
女生徒達は、校庭に「貧血の唇を閉じたまま」しんと整列している。 </p>

<p>　　　　　　　体操が始まって <br />
　　　　　　　委員の号令に合わせ <br />
　　　　　　　生殖器をつぼめて爪先立つたび <br />
　　　　　　　くるぶしにソックスが皺寄ってくる </p>

<p>少女だったことのある女なら、誰でもが、 <br />
この生々しい感覚に覚えがあるのではないだろうか。 <br />
そして、この詩は、こう結ばれる。 </p>

<p>　　　　　　　感情がささ波立っている <br />
　　　　　　　訳は聞かない <br />
　　　　　　　遠くからやってきたのだ </p>

<p>いったい何が「遠くからやってきた」のか。 <br />
また、「素顔」という詩の書き出しの一節では。 </p>

<p>　　　　　　　服のように <br />
　　　　　　　簡単に顔をぬげなくて <br />
　　　　　　　苦しい </p>

<p>たしかに、服のようにするりと脱いでしまいたいと思うことがある。 <br />
肌の上の化粧が、やけに重たいとき。 <br />
感情を隠して作った頬の筋肉が、痙攣しそうなとき。 <br />
どんな表情をつくるべきなのか決めかねて、 <br />
目も鼻も唇もばらばらに砕けてしまいそうなとき。 <br />
その表情に苦しんでいるうちに、<br />
「呼吸をするように／ふっと」素顔になってしまう自分。 <br />
そして、この詩の最後は、こうだ。 </p>

<p>　　　　　　　目を閉じる <br />
　　　　　　　しきりに何か降ってくる <br />
　　　　　　　真昼 </p>

<p>井坂洋子は、選びぬいたコトバで、 <br />
読む者のからだの中にある「感覚」を呼び覚ます。 <br />
それは、かなり生々しい。 <br />
湿り気を伴っていたり、光と影を従えていたり、<br />
空気の匂いまでが絡みついた「感覚」である。 <br />
その感覚に戸惑い、うろたえているうちに、詩は、静かに終着点に向かう。 <br />
「遠くからやってきた」何か。 <br />
「しきりに降ってくる」何か。 <br />
それは、耳元に、あるいは、真空のように静謐な空間のなかに、 <br />
そっと流れる呪文のようにも思える。 <br />
並べられたコトバのひとつひとつは、すべてフツウのコトバなのに、 <br />
読み終えたあと、ふと気づくと、フツウではない空間に連れ去られているのだ。 <br />
それは、コトバの選び方、繋ぎ方から生まれてくる。 <br />
ほんの少しの歪み。捻れ。飛躍。 <br />
それらのコトバたちが、まさに白日夢を見させてくれるのだ。 </p>

<p>そして、もうひとつ。 <br />
井坂洋子の詩には「女」の生々しい感覚があるが、 <br />
それは、可愛い女、哀しい女、艶めいた女、毅然とした女、などという <br />
形態を主張する女ではない。 <br />
「生」と「性」を内包している「女」という「ヒト」なのだ。 <br />
井坂洋子が選ぶコトバは、決して「女」であることに頼って流されてはいない。 <br />
わたしは、彼女の「コトバ」に対する感覚、姿勢に敬服する。 </p>

<p><br />
詩に、むずかしい解釈などいらない。 <br />
解釈に、正解、不正解もない。 <br />
詩は、感じることだと、わたしは思う。 <br />
現代詩というものを食わず嫌いしていた私の頭を、 <br />
ガンと一発思いっきり殴って、目覚めさせてくれた一冊である。　　　</p>

<p><br />
＋＋＋</p>

<p>『現代詩文庫９２　井坂洋子詩集』 <br />
井坂洋子／思潮社／1988年／1165円 <br />
</p>]]></description>
<link>http://www.mimei.info/works/archives/2005/12/post_116.html</link>
<guid>http://www.mimei.info/works/archives/2005/12/post_116.html</guid>
<category>レビュー</category>
<pubDate>Sun, 11 Dec 2005 01:57:20 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>向日葵―五行詩―</title>
<description><![CDATA[<p><img alt="himawari1.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/himawari1.jpg" width="360" height="342" /><br />
</p>]]></description>
<link>http://www.mimei.info/works/archives/2005/12/post_123.html</link>
<guid>http://www.mimei.info/works/archives/2005/12/post_123.html</guid>
<category>シ（詩）ノヨウナモノ</category>
<pubDate>Sun, 04 Dec 2005 03:53:59 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「めし」―成瀬巳喜男―</title>
<description><![CDATA[<p><img alt="mesi.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/mesi.jpg" width="209" height="56" /></p>

<p><br />
松竹の社長・城戸四郎に「小津は2人いらない」と言われたという成瀬巳喜男は、<br />
弱冠１５歳で松竹蒲田撮影所に小道具係として入り、２４歳で監督に昇進、<br />
以降、６３歳で亡くなるまで８９本もの映画を撮ったという。<br />
“女性映画の名手”とも謳われた監督は、<br />
今やメロドラマの元祖とも言われているようだけど。<br />
でも、昨今のメロドラマとはわけがちがう。</p>

<p>『めし』の中で、<br />
夫である初之輔（上原謙）と、その姪・里子（島崎雪子）と共に<br />
大阪見物に出かけることになった三千代（原節子）が、<br />
唐突に「行くのをやめる」と言い出す場面がある。<br />
縁談を断って東京から家出してきた里子は、<br />
何でも自分の思い通りになると思っているようなお嬢さんで、<br />
出かける支度をする初之輔に対しても、甘えるように<br />
「あたし本当は初之輔さんみたいな人が好きなの」とまとわりつく。<br />
そう言われて、満更でもなさそうな初之輔。<br />
そして台所で朝ご飯の後かたづけをする三千代に早く出かける支度をしろと促す。<br />
その時、里子が初之輔の胸元を見て言うのだ。<br />
あら、ずいぶんヨレヨレなネクタイね、と。<br />
その直後、三千代は言う。「あたし、行くのよすわ」<br />
薄く微笑んで、「ふたりで行ってらっしゃいよ」と。</p>

<p>夫と里子の甘えたような会話が面白くないというのも、もちろんある。<br />
けれど、三千代の琴線に触れたのは、きっと「ネクタイ」だ。<br />
日々お金の心配をし、なんとかやりくりをして、夫にご飯を作り……。<br />
そういう夫婦の暮らしを守るためにだけ生きているような三千代の胸に、<br />
夫のネクタイを嗤う里子のコトバは、棘のように刺さったにちがいない。<br />
妻として精一杯やっているという「プライド」や、<br />
こんな人生でいいのかという気持を抑え込んで<br />
耐えてきた女としての「揺らぎ」<br />
悪気のない里子のコトバ（悪気がないからこそよけいに）は、<br />
その両方を、的確に突っついたヒトコトだった。<br />
そこで怒りだすのではなく、笑って見せたのは、<br />
三千代がかろうじてプライドを保とうとしたからだろう。<br />
女として、この三千代の気持はよく分かる。<br />
たとえ自分にそんな経験がなくたって、唇をかむほどに、よく分かる。</p>

<p>ヒトの気持は一定ではない。<br />
２÷２が割り切れなかったり、白か黒かなんて決められなかったりする。<br />
成瀬巳喜男は、その決着のつかないキモチの揺れを見事に描きだす。<br />
何気なく、さりげなく、決して大仰でなく。<br />
日常の中のひとこまや、ひとことで、静かに伝える。<br />
だからこそ、見る者は引きこまれていく。<br />
その人物と同じ目線になって、<br />
そこにある日常を、人々を見つめることができる。</p>

<p><br />
そういえば、成瀬映画には文芸作品を原作にしたものが多い。<br />
『めし』の原作は林芙美子、監修が川端康成 <br />
『放浪記』はもちろんだけど、他にも林芙美子原作のものは、<br />
『稲妻』、『妻』、『晩菊』、『浮雲』とたくさんある。<br />
川端康成原作のものは、『舞姫』、『山の音』、<br />
泉鏡花の『歌行燈』<br />
室生犀星原作の『あにいもうと』、『杏っ子』<br />
石坂洋次郎の『まごころ』、『石中先生行状記』、『くちづけ』</p>

<p>放浪記も山の音も、元となっている小説は、すぐれた文芸作品だ。<br />
良い小説だから、映画にしたい、映像で描きたい。<br />
そういうことだったのだろう。<br />
その原作の中でうねり粟立つヒトの感情を、<br />
こまやかに描くことのできる成瀬だからこそ、<br />
「文芸作品」がよりいっそういきいきとしてくる。<br />
映像としての価値もあがる。<br />
このころの「原作」と今の「原作」は、どうしてこんなにも違うのだろう。<br />
これは映画化したら話題になって本も売れるだろう、とか、<br />
小説を読むのは面倒だから、映像で見たほうがいいじゃん、とか、<br />
今の時代のそんな思惑で選ばれる「原作」は、果たして原作といえるのか。<br />
それは「原案」でしかないのではないだろうか。</p>

<p>「原作」のある「映画」というのは、<br />
文学的にも映像的にも評価されるに値するものであってほしい。<br />
そんなことを、ついつい思ってしまうあたしは、<br />
やっぱり100年くらい前に生まれたほうがよかったのかも。<br />
ね。</p>

<p><br />
■□■</p>

<p>「めし」<br />
監督： 成瀬巳喜男 <br />
出演： 上原謙, 原節子, その他 <br />
DVD (2005/07/22)東宝　価格: ￥4,725 （税込） </p>]]></description>
<link>http://www.mimei.info/works/archives/2005/12/post_121.html</link>
<guid>http://www.mimei.info/works/archives/2005/12/post_121.html</guid>
<category>レビュー</category>
<pubDate>Sun, 04 Dec 2005 03:19:59 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ふたりの詩人―西原正・たけだたもつ―</title>
<description><![CDATA[<p><img alt="hutarino.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/hutarino.jpg" width="209" height="56" /></p>

<p><br />
期せずして、というか、たまたま偶然というか、あるいは必然なのか。<br />
同じ時期に２冊の詩集が手もとに届いた。<br />
どちらもWEBで作品を発表されている詩人の作品集である。</p>

<p>西原正作品集「音函」<br />
たけだたもつ「こっそりとショルダー・クロー」</p>

<p>日にちを前後して届いた２冊の詩集。<br />
だからと言って、２冊を比べて書こうなどということではない。<br />
だいいち、詩を比べることなんてできっこない。<br />
しかも、このおふたかたの作品は全く異なるカラーを持っている。<br />
正反対とでもいうような。<br />
いや、そうだろうか。<br />
少なくとも、ひとつだけは共通するものがある。<br />
それは、それぞれがそれぞれにしか書けない世界を持っている、ということ。</p>

<p>□</p>

<p>西原さんの「音函」のことは、<br />
以前にもブログで紹介した通り、<br />
去年の４月、ネオブックから出版された「光函」に続いての作品集。<br />
『「音函」は「光函」を引き継ぐように詩「冬の光」という<br />
　作品から始まります。そして、私たちの人生に現われる様々な<br />
「音」をテーマに短編小説を書きました。』<br />
あとがきにそう書かれている通り、ここに収められているのは、<br />
詩と短編。<br />
詩はどれも「婦人公論」フォーラム詩で入選あるいは佳作となった作品ばかり。<br />
あたしも敬愛する詩人、井坂洋子さんによって選ばれた詩たち。</p>

<p>西原さんの詩を読むと、あたしはいつもそこに視線を感じる。<br />
まっすぐに、じっと見つめるまなざし。<br />
表に現われているものだけでなく、<br />
その奥にある何かを見極める画家のような鋭い視線。<br />
木片から何かを生み出そうとするかのような、厳かなまなざし。<br />
だが、そうやって生まれてきた言葉は、決して冷たくない。<br />
哀しみの詩であっても、その底には暖かな灯がある。<br />
静かな愛情のようなもの。</p>

<p><img alt="sanpatu.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/sanpatu.jpg" width="300" height="241" /></p>

<p>どの詩も良いけれど、あたしはこの「散髪」が好きだ。<br />
特に書いてはいないのに、ここにいる「ふたり」が見えてくる。<br />
そのふたりを取り巻く風景と、空気が。<br />
人と人のぬくもり、平穏であることの幸福、美しさ。<br />
そういうものが、まざまざと見えてくる。感じることができる。<br />
こんなに少ない言葉で、どうしてその全てを表わすことができるのか。<br />
つい長々と文章を繋ぐあたしにとっては、驚異とさえ思えるほどだ。</p>

<p>言葉に潜む「静かな愛情」というものは、短編小説にも感じることで、<br />
そのせいだろうか、どの小説も読後感がすごく良い。<br />
それこそ、あたたかな澄んだ「光」を感じるようなラスト。<br />
しかもそれがあざとくない。<br />
自然に笑みが浮んでしまうような終わり方なのだ。<br />
（『魚子薔薇』のラストは秀逸。とにかく奈々子が可愛くて愛おしい）<br />
そして又、それぞれの「人生に現われる音」が面白い。<br />
ここで種明かしするのはもったいないので、あえて書かずにおくけれど。<br />
普通、小説のモチーフに使う「音」といえば、<br />
思い浮かべるのは、台所の音とか、車の音、電話の音、等々など……。<br />
でもここにある音は、どれもちょっと違う。<br />
その人にとって特別な音。<br />
人生を左右することになるかもしれない、大切な音なのだ。<br />
その大切な音が、静かに聞こえてくる。<br />
言葉のすきまから、胸の奥に響いてくる。<br />
まるで詩のように。<br />
そう。短編小説であっても、やはりこれは詩なのだ、と思う。<br />
詩人の書く小説の奥底には、やはり詩が潜んでいるものなのだ、と。<br />
そしてそのことを、あたしはとても羨ましく思ったのだった。</p>

<p>□</p>

<p>WEBの詩サイトでは有名な「poenique」の<br />
「第一次べすぽえ。」受賞者であるたもつさんは、<br />
ネットでもファンの多い詩人ではないだろうか。<br />
あたしもたもつさんのブログ「こっそりと詩」を、<br />
以前から「こっそり」と愛読させて頂いていた。<br />
たもつさんの詩は、どこか軽妙で、<br />
ふっと肩の力を抜けさせるものがある。<br />
シゴトから疲れて帰ってきて夜更けにPCを開いて、<br />
たもつさんの詩を読んでは、くすっと笑ったり、肯いてみたり、<br />
嬉しくなったり、切なくなったり。<br />
そんなヒトも多いのではないだろうか。</p>

<p>そんなたもつさんの詩は、時に想像もできない飛び方をする。<br />
まさに「想定外」の言葉の飛躍。想像の飛躍。<br />
思わずツッコミを入れたくなるような、<br />
その裏切られ方がなぜだかとても心地いいのだ。<br />
ちくしょー、そうくるか、と舌打ちしながら喜んでしまう。<br />
だが、そのコトバひとつひとつをつぶさに見つめていると、<br />
それがちゃんとたもつさんのカラダの中から生まれてきたものだ、<br />
ということを強く感じる。<br />
どんなに飛躍した言葉でも嘘くさくないのはそのせいだ。<br />
しかも、これしかないという言葉が、<br />
ここにあってこそ、という場所に置かれている。<br />
だからこそ独特の軽妙さが生まれてくる。<br />
決して「軽々しく」ならない軽妙さ。</p>

<p><img alt="okiba1.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/okiba1.jpg" width="410" height="290" /></p>

<p>炊飯器の中からほっかほかの手紙。<br />
これを読んだだけで、思わずくすりと笑ってしまうけれど、<br />
そこで油断してはいけない。<br />
『うっすら黒』いご飯（食べるか、それを）の『インクの味』<br />
『ぐにゃり』とする手紙（だったもの）の食感。<br />
言葉に書かれてはないけれど、なんだか溜息の気配がただよっている。<br />
その気配の通り、主人公は後悔する。<br />
「置き場を考えるべきだった」と。<br />
このとぼけ具合が独特の味を出しているのだけれど、<br />
そしてそこでくすっと笑ってしまうのだけれど、<br />
またまたここで油断してはならない。<br />
そしてラストにて、ついに破片は捨てられる。<br />
なんだか哀しい。とたんに悲しい。<br />
何よりも哀しいのは、その『ご飯を全部食べた』ことである。<br />
そのことに、ヤラレタ、と思うのだ。</p>

<p>そういえば、あたしは今「主人公は」と書いたけれど、<br />
それは、たもつさんの詩がどこか小説のように思えるからだ。<br />
どの詩にも「物語」が潜んでいる。<br />
言葉に背景があって、登場する人物にも背景を感じるのだ。<br />
『上にもまいりません/下にもまいりません』という、<br />
エレベーターガールである『妻』と、<br />
『いいんだ、どこにも行かなくて』という『僕』<br />
（『世界エレベーター』）<br />
この夫婦の歩いてきた道、関係、それぞれの履歴、性格。<br />
そういったものがすべて背後にきちんとあって、そしてここにいる。<br />
そういう詩。<br />
詩の中に生きている誰もがどこかおかしくて、どこか哀しい。<br />
ヒトは誰しもが孤独で、所詮生まれるのも死ぬのもひとりきりで、<br />
だからこそ、人恋しくて、人懐こくて。<br />
そんな人々を、そして自分を、彼は静かに見つめている。<br />
その孤独を眺めている。<br />
透明人間みたいに、ひっそりと。<br />
時に、やれやれ、なんて呟きながら。<br />
詩を読みながら思わず、<br />
たもつさんってそんなヒトなのかなぁ、と想像してみたりする。<br />
ヒトが好きなんだろうな、とも。</p>

<p>□</p>

<p>期せずして続けて読んだ、この２冊の詩集。<br />
西原さんの、静謐な詩。そして詩のような物語。<br />
たもつさんの、飛躍する言葉、物語のような詩。<br />
そのどちらもが、それぞれにしか描けない世界だ。<br />
「こんな感じ」という雰囲気だけで書かれているものではなく、<br />
きちんと自分のからだの中から生み出したもの。<br />
その独特の世界を言葉で築き上げるとき、<br />
きっと詩人は、<br />
怖いほど真剣なまなざしをしているのではないだろうか。<br />
真摯で、冷静なまなざし。<br />
自分、他者、人間というもの。そして言葉を、<br />
愛を持ってまっすぐに見ている。<br />
そんな強くて優しい瞳をこの詩集の中に見たような気がした。</p>

<p>WEBで発表された作品が、こんなに良質の本になる。<br />
WEBからだって、こんなにちゃんとした文芸作品が生まれるんだ。<br />
そのことがとても嬉しかった。<br />
こういう本がどんどん増えていってほしいと強く思った。</p>

<p>こんなに優れた詩集を同時期に手にとることができたなんて、<br />
すごく幸せなことでした。</p>

<p>おふたりに心からの感謝を。</p>

<p></p>

<p>西原正さんのサイト<br />
「西原正WebSite」<br />
<a href="http://www2.ocn.ne.jp/~waltz/">http://www2.ocn.ne.jp/~waltz/</a></p>

<p>たけだたもつさんのサイト<br />
「こっそりと詩」<br />
<a href="http://blog.drecom.jp/kossori/">http://blog.drecom.jp/kossori/</a></p>

<p></p>

<p>■□■</p>

<p>おふたりともWEBで作品を発表されているけれど、<br />
それぞれの作品を「紙の本」で、<br />
しかも「タテガキ」で読む、というのは、また違った味わいがある。<br />
いや、味わいがより一層深くなる。<br />
世界に奥行きが出て、ぐんと広がるような気がする。<br />
なので、ひとりでも多くの方にその良さを感じて頂きたくて、<br />
そして実際に本を手にして頂きたくて、<br />
あえて詩を引用させて頂きました。<br />
こころよく許してくださったおふたりに、さらなる感謝を。</p>

<p>　　<br />
　　<br />
　　<br />
　　<br />
</p>]]></description>
<link>http://www.mimei.info/works/archives/2005/12/post_120.html</link>
<guid>http://www.mimei.info/works/archives/2005/12/post_120.html</guid>
<category>レビュー</category>
<pubDate>Sun, 04 Dec 2005 02:55:39 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>しごく個人的な―熱い書評―</title>
<description><![CDATA[<p><img alt="atuisyohyo.jpg" src="http://www.mimei.info/works/archives/atuisyohyo.jpg" width="209" height="56" /></p>

<p><br />
「あらすじで読む名作」というような本が、 <br />
書店に平積みされはじめたとき、あたしは首を傾げた。 <br />
「うーん、あらすじだけ読んでもなぁ」と。 <br />
あらすじだけで、その本の「面白さ」なんて分かるわけがない。 <br />
ましてや、あらすじだけ読んで、読んだつもりになってしまうのでは哀しすぎる。 <br />
もちろん、これを手がかりに読めそうな名作を探してみよう、 <br />
という使い方もあるだろうけど。 </p>

<p>そんなことを思っていたある日、突然すばる舎からメールが届いた。 <br />
「あらすじだけじゃ、本の面白さは分からない。 <br />
もっと本に対する愛情のある名作紹介本を作りたい」<br />
そのメールで、Y編集者は熱く語っていた。 <br />
で、もちろん。 <br />
あたしは、その書評の依頼をお受けした。 </p>

<p>が、問題は「どの本について書くか」ということだった。 <br />
好きな本、思い入れのある本はたくさんある。 <br />
とにかく候補を１０冊に絞って、あれこれ相談しつつ、 <br />
結局、「センセイの鞄」に決まったのだけど。 </p>

<p>川上弘美著の「センセイの鞄」は、かなり話題になった本だ。 <br />
しかも、あたしの周りでも、評価は「まっぷたつ」に分かれていた。 <br />
良いと言う人は、果てしなく好きだと言うし、 <br />
嫌いという人は、どこまで行ってもワカラン、という。 <br />
その書評を書くとなると、いったいぜんたい……。 <br />
悩んだあげく、あたしは決めたのだった。 <br />
書評なんてもんじゃなくて「まったく個人的な文章」を書こうと。 <br />
元々「読書」というのは、とても「個人的」な楽しみだと思うから。 <br />
１００人いれば、１００通りの読み方があっていい。 <br />
それにあたしは常日頃、エッセイを書くと「小説？」と言われ、 <br />
レビューを書くと「エッセイ？」と言われることが多い。 <br />
この際、それに徹してしまえ、 <br />
と覚悟を決めた（ヒラキナオリともいう）のである。 </p>

<p><br />
ということで。 <br />
ぎっしりと「熱い想い」が詰まった書評本。 <br />
かなり読み応えのある１冊になったのでは。 <br />
本に対する愛情たっぷりの、ちょっと変わったレビュー本です。 <br />
ぜひ、お手にとってみてください。</p>

<p><br />
　<br />
　<br />
＋＋＋</p>

<p>『熱い書評から親しむ感動の名著』  <br />
 bk1with熱い書評プロジェクト／すばる舎／2004年／1680円 <br />
</p>]]></description>
<link>http://www.mimei.info/works/archives/2005/12/post_119.html</link>
<guid>http://www.mimei.info/works/archives/2005/12/post_119.html</guid>
<category>レビュー</category>
<pubDate>Sun, 04 Dec 2005 02:46:45 +0900</pubDate>
</item>


</channel>
</rss>